聖書からのメッセージ

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2009年〜2010年
 2010年 12月  ルカによる福音書2:11
11月  テサロニケの信徒への手紙T5:18  
10月  テサロニケの信徒への手紙T5:16 
9月  詩編23章1節 
8月  ヘブライの信徒への手紙11:1-3、8-12 
7月  出エジプト記3:12 
6月  創世記6:9 
5月  創世記1:1 
4月  ヨハネによる福音書20:24〜29 
3月  ルカによる福音書6:27〜30 
2月  マルコによる福音書10:14 
1月  ルカによる福音書4:1〜13 
 2009年 12月   ルカによる福音書2:11 
11月   ルカによる福音書6:31
10月  マルコによる福音書4:1〜9
9月  詩編119:105
8月  ヨハネによる福音書6:51-58  
7月  創世記1:27 
6月  ヨエル書3:1〜2、5 
5月 ヨハネによる福音書15:5
4月 ルカによる福音書24:28〜35
3月 マルコによる福音書1:40〜45
2月 マタイによる福音書7:7〜8
1月 ヨハネによる福音書1:29〜42

2007年〜2008年はこちら
 
2010年12月
今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。  ルカによる福音書2章11節

 「希望の時を待つ。」
 第二次世界大戦の時、ユダヤ人をはじめ多くの人たちがナチスによって強制収容所に入れられました。そして死の選別がなされてガス室に入れられたり、過酷な労働を強いられて栄養失調で死んだり銃で撃たれたりしたのです。

 その中にボンヘッファーというドイツ人の牧師がいました。彼は1943年4月にユダヤ人の亡命を援助したとして逮捕されます。そして1945年4月にヒトラー暗殺計画への関与が発覚、わずか数日後に強制収容所に移送されて死刑判決を受け、絞首刑に処せられました。

 その彼が1943年の待降節の日曜日、獄中のかべに木の枝で編んでつくった輪をかけました。もちろんそれは待降節のリース、クリスマスを待ち望むしるしです。どれほどの苦しみや不安の中にあるとしても、イエスさまが来て必ず救ってくださると信じて彼は祈っていました。多くの人たちがこのボンヘッファーが掲げた希望のしるしによって励まされ、生きていく望みが与えられたのです。やがてナチスドイツが崩壊したとの知らせが届いたとき、獄中の人々は喜びに溢れました。

 クリスマスの前の季節をアドベントと言います。ラテン語で「来る」、「到来する」という意味です。イエスさまは愛と赦しと希望のおとずれを携えて、わたしたちのところにも来てくださいます。ですから、どれほど苦しく絶望的と思える中にあっても、希望を見失ってはなりません。

 ベツレヘムの野辺の羊飼いたちは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」 (ルカ2:11)との知らせを聞きました。全ての民に与えられるこの大きな喜びのときをわたしたちも待ち望みたいものです。 UP
2010年11月
「どんなことにも感謝しなさい。」   (1テサロニケ5章18節)    

 わたしたちは人と人とのつながりの中で生きています。喜びや悲しみ、愛することや憎しみがそこから出てきます。もちろん感謝することやつぶやくこともです。どんな思いで過ごしているときが多いのかを、もし自分に問うてみるとしたらどうでしょう。喜んだり、感謝したりするよりも、つぶやいたり、誰かを責めたり、落ち込んだりすることの方が多いということになってはいないでしょうか。

 ところが、今テサロニケの教会に宛てた手紙の中で伝道者パウロは、「どんなことにも感謝しなさい」と語りかけるのです。「どんなことにも」の原意は、「一つの欠けもなく」「全てのことについて」です。つまり到底喜ぶことなどできないと思われる状況にあっても、それでも喜び、感謝することができるということになります。

 そんなことがあり得るのでしょうか。それはパウロの強がりではないでしょうか。しかし今彼は、決して強がりからではなく、本心から「どんなことにも感謝しなさい」と語りかけるのです。

 5章16〜18節を聴きましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。まるでたたみかけるようにパウロは「いつも…」「絶えず…」「どんなことにも…」と語りかけています。一つの欠けもない恵みが「キリスト・イエス」その方にあるからです。

 今、神がキリスト・イエスにおいて注いでくださった恵みが届かない場所、この方の恵みが色あせてしまうような状況があるだろうか?と問うてみましょう。しかしキリストの恵みは、わたしたちが罪深く、恵みから最も遠いところにあるときに、余すところなくもたらされたのではないでしょうか。十字架の光が届かない場所などないのです。

 そうです。わたしたちにとって最悪と思われる中にあっても、神はキリスト・イエスにおいて、これを恵みのときに変えてくださいます。「どんなことにも感謝しなさい」と語られる根拠がまさにここにあるのではないでしょうか。この感謝に生きるわたしたちでありたいと思います。  UP
2010年10月
いつも喜んでいなさい。(Tテサロニケ5章16節)


 わたしたちが生きているこの時代は本当に様々な悩みを抱えています。またわたしたち自身にも「わたしにはこのことがあるから大丈夫だ」とはなかなか言えない、家族や生活についての重い課題があるのではないでしょうか。

 ところが聖書は、このような時代やわたしたちの現実を知りつつ、「いつも喜んでいなさい」と語りかけるのです。「いつも」とは「どんなときにも」「ときが良くても悪くても」ということです。何かを達成したときに喜ぶことは当然ですが、重い課題を抱える中でも「喜んでいなさい」と語ることができるのは何故なのでしょうか。

 この喜びの言葉を伝えたのはパウロという伝道者です。彼は人生に辛いことや悲しいことがあるということをよく分かっていました。というのも、彼自身多くの艱難を経験し、また深刻な持病も抱えていたからです。彼はその持病についてコリントの信徒への手紙(二)12章7節で「神から与えられたとげ」と言っています。この「とげ」それ自体は非常に痛く辛いものだったようで、彼は「このとげを取り除いてください」と三度も祈っています。しかし彼は祈る中で、この弱さも神の御心であり、この弱さの中でこそ神の恵みは豊かにもたらされ輝くのだという真理を知らされたのでした。ですから彼は「喜んで自分の弱さを誇りましょう(12章9節)」とまで言っています。

 したがってここで「いつも喜んでいなさい」と語られるとき、それはパウロの強がりではなく、決して裏切られることのないキリストの十字架の恵みの宣言にほかなりません。行き詰まるかに思えるときでも、キリストの恵みの力が臨み、進むべき道が開かれるのです。わたしたちもここに立ちたいものです。  UP
2010年9月
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(詩編23:1) 

 聖書の中にはたくさんの人物が出てきますが、その人がどのような生涯を送ったのかについておよそつかめるという人は、実はごく限られています。その一人に、イスラエルの最も偉大な王として知られているダビデがいます。この人はエッサイという人の八番目の末子であり、最初は兄たちの陰に隠れて目立つ存在ではありませんでした。ところが神はこのダビデを、サウル王の後継者として選ばれたのです。

 彼はベツレヘムの野辺で父の羊の群れの番をする素直で勇気ある少年でした。また竪琴の名手でもあり、彼が奏でる音色は心の病を癒す不思議な力がありました。そのため、悪霊におびえていたサウル王に仕える者として抜擢され、王の病を癒したのです。

 このダビデの名を高めたのは、彼がイスラエルの宿敵であるペリシテの戦士ゴリアトという人を倒したことです。ゴリアトは大変な大男(背丈:約3メートル)でしたので、イスラエルの戦士たちはすっかり戦意を失ってしまいました。このとき、何と少年ダビデが「しもべ僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう(サムエル上17:32)」とサウル王に申し出たのです。

 このゴリアトとの戦いでダビデは大方の予想に反して勝利します。ゴリアトが身につけていたのは重そうな青銅のかぶと兜、うろことじのよろい鎧、すね当てであり、肩には青銅の投げ槍を背負っていました。これに対してダビデが手にしていたのは、羊を守る道具である投石袋と石投げひも紐だけです。力の差は歴然としていたわけですが、ダビデが投じた小石一つによってゴリアトは倒されてしまいました。

 注目したいのはこのときダビデが言った言葉です。「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。…主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない…」と。神に対するダビデの信頼は本当に深いものでした。その後の彼はまさに波瀾万丈の人生でしたけれども、神への信頼が揺らぐことはありませんでした。

 詩編23篇はダビデの晩年の歌だと思われます。多くの苦しみと神の助けを経験したからこそ語り得た言葉だと言えるでしょう。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない(1節)」この言葉には「どんなに苦しくても、神はわたしを守ってくださる。決して見捨てられることはない」との神への深い信頼が言い表されています。この信頼にわたしたちも導かれたいものです。  UP
2010年8月
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに 神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことがわかるのです。

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。 (ヘブライの信徒への手紙11章1-3、8-12)   

 「信仰の旅人として生きる」

 わたしたちが信仰の旅人として生きるとは、どのように生きることでしょうか。ヘブライ人への手紙はこの信仰について「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(11:1)」と語っています。信仰とは「望んでいる事柄」つまり神が約束していてくださる揺り動かされることのない天の御国を望むことだというのです。したがってこの信仰に生きる人は、天の御国を目指す旅人だということになります。この御国は今はまだ見えませんけれども、信仰の旅人は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」しつつ旅を続けるのです。

 その際気を付けなければならないことがあります。それは旅人らしい生き方を忘れないということです。コロサイの信徒への手紙3章2節を聞きましょう。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」とあります。信仰の父アブラハムはまさにそのような生き方をしました。彼は「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望し(11:10)」、信仰の旅人としての姿勢を崩すことはついにありませんでした。神の召しがあればいつでもそれに応えて旅立つ心備えをしていたということです。

 わたしたちも今御国を目指す旅路の途上にあります。これは決して孤独な旅ではありません。なぜなら、あらゆる苦難を味わわれ、わたしたちの弱さをも知っていてくださる御子キリストがこの旅路に伴い、この旅路を全うさせてくださるからです。御国に入るその日まで、互いに励まし合いつつ、この希望と慰めに満ちた旅を重ねて行こうではありませんか。UP
2010年7月
「わたしは必ずあなたと共にいる」 (出エジプト記3章12節)   

 旧約聖書の物語の中でモーセ物語ほどドラマチックなものはないかも知れません。エジプトに住む大勢のイスラエル人たちが大変苦しい生活を強いられていた頃、モーセはエジプトに生まれました。ヘブライ人の家庭で生を受けたのです。この赤子がやがて大勢のイスラエル人たちを率いてエジプトの国から出て行く人になります。神の救いの御業が始まりました。

 モーセが生まれたとき、状況はまさに危機的でした。次第に人数を増やすイスラエル人を恐れたエジプト王は、ヘブライ人の家庭に生まれた男の子をすべてナイル川に放り込んで殺してしまえと命じたのです。情け容赦のない命令です。生まれて間もないモーセに危機が迫りました。母親は三ヶ月間何とか隠し通しますが、泣き声が大きくなってきたのでもう隠しきれないと思い、最後の手段に打って出ます。パピルスでつくった籠に赤ちゃんを入れ、ナイル川にそっと流したのです。

 このときの母親の心境は察するに余りあります。しかしこの母親は信仰深い人でした。生きてほしいとの切なる願いをこめ、神の御手にすべてを委ねて、小さな小さな籠を見送ったに違いありません。出エジプトは、一人の女性のこのような神への強い信頼から始まったことを、まず心にとめたいと思います。

 果たして神は彼女の願いを聞き入れてくださいました。エジプトの王女が籠を見つけ、自分の子として引き取ったのです。赤子はモーセと名付けられて成人してゆきました。このままエジプトにとどまれば、モーセの将来は約束されバラ色だったはずです。しかし神のご計画は彼がエジプトにとどまることではありませんでした。

 モーセは同胞のヘブライ人を助けるため一人のエジプト人を殺してしまいます。そのため彼はエジプトを逃れてミディアン地方にたどりつき、ある家庭に身を寄せることになりました。そしてこの地で神の召命を受けたのです。神は言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。

 「わたしには荷が重すぎます」とたじろいだモーセでしたが、このとき神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださり、彼を強く励まされました。その後もモーセは困難な道を進むことになりますが、この約束の御言葉が常に彼を支えたのです。わたしたちの希望もここにあります。  UP 
2010年6月
 「これはノアの物語である。その時代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(創世記6章9節)  

『ノアは神と共に歩んだ』

 神によって創造されたこの世界に異変が起こっています。先日ドイツから来た友人もヨーロッパの気候の変動を案じていました。いつの間にか人類は地球に大変な負荷をかけてしまったようです。このままではいけないという警告のベルが、すでに鳴り響いているのではないでしょうか。にもかかわらず地上では各地で対立が深まっています。どうしたことでしょうか。

 ノアの物語はよく知られている聖書の物語です。絵本にもなっていて新しいものも出されています。この物語にはいくつかのポイントがあります。箱船に入った沢山の動物たちのこと、四十日間も降り続いた雨のこと、そしてノアとその家族たちのことなどです。しかしこの物語が伝えているメッセージの中心はどこにあるのでしょうか。

 ノアの物語ですぐ目に浮かぶのは、いろいろな種類の動物たちが箱船に入っていく様子かも知れません。動物たちが一箇所に大集合するわけですから箱船の中は様々な鳴き声が行き交い、においも立ちこめていたに違いありません。これらの一つがいずつの動物たちは、洪水後の新しい世界の始まりに備えて集められました。危機が迫る中で、神はあらゆる種類の生き物たちに命をつなぐ場を用意してくださったのです。

 しかしメッセージの中心は「ノアは神と共に歩んだ」にあります。他の多くの人々は自らの欲望を追いかけることに夢中で、神の御声など耳に入りませんでした。ところがノアはまっすぐな心の人で、雨が降り出す気配もないときに、神の御声に従って箱船を造り始めたのです。果たして箱船が完成し、動物たちが入り終えたとき、大粒の雨が降り始めました。ノアは彼の家族と共に神の前に恵みを得たのです。ノアは洪水後も神と共に歩む最初の人となりました。ノアに続くことがわたしたちに求められています。  UP 


2010年5月
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)  
春の訪れに異変が起きています。札幌はなかなか暖かくなりませんし、関東などでは極端な寒暖の差が続いています。また海外では大きな地震が各地で起こり、アイスランドの火山噴火による影響が広がりました。気候や地殻の変動についての関心が今まで以上に高まっています。

 このような地球環境の問題と聖書のメッセージとは一見関係なさそうですが、実はそうではありません。聖書の冒頭にある創世記は「初めに神は天地を創造された」と告げています。神は混沌の中から御心によってすべてのものをお造りになり、これを見て良しとされました。

 ところが神がよしとされたこの世界に異変が起こります。最初の人アダムは妻と共に「食べてはならない。食べると死ぬ」と言われていた園の中央の木の実から取って食べてしまいました。つまり人間は神の御心を無視し、越えてはならない一線を越えてしまったのです。その後人間の悪が地上にはびこり、神は人を造ったことに心を痛められ、ノアとその家族を除き、すべてを洪水によって滅ぼされました。つまり世界は混沌に戻ってしまいました。

 この創造物語からどのようなメッセージを聞き取るのかが、今わたしたちに問いかけられています。気候の異変や地殻変動はそのことを促しているのではないでしょうか。確かに神の御心を離れてわたしたちが生きる世界の祝福はありません。しかし逆に言えば、神は本当の祝福の所在を豊かに告げ示してくださっているということでもあります。すべてにおいて神の御心を求めて生きるわたしたちでありたいと思います。    UP 
 2010年4月
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章24節〜29節) 

 『信じる者になりなさい』        

 ヨハネによる福音書の最後にトマスという人が登場します。彼は他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」と聞くのですが、その証拠を自分の目で確かめるまでは信じられないと言った人としてよく知られています。そのトマスにこの福音書は注目するのです。この福音書はなかなか信じられないトマスとわたしたちとを重ねて記しているのではないでしょうか。

 今イエスはトマスの心の底を見抜いておられます。彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ…わたしは決して信じない(25節)」と申しましたが、イエスは彼の心の底に何があるのかをご存じでした。

 イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(27節)」と言われます。このときトマスは、自分の心の底にある醜さ、そして罪の闇に捕らえられている自分を思い知らされると共に、イエスが変わることのない愛をもって強く迫ってくださったのだと知ることができました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい!」とのみ声が彼の心を打ち砕き、彼は見て信じる者から見ないで信じる者へと変えられたのです。

 彼はついに「わたしの主、わたしの神よ(28節)」との心からの信仰を言い表します。遅れてやってきた彼もまたイエスの変わらない愛と真実に捉えられたのです。この方はまた、心に戸惑いやおそれを抱え持っているわたしたちのところにも訪れてくださいます。「信じる者になりなさい」と語りかけてくださるのです。トマスに続くわたしたちでありたいと思います。 UP   
 2010年3月
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカによる福音書6章27〜30節) 

『 憐れみ深い者となりなさい 』     
 神の国の福音が宣べ伝えられるところでは、それまで当然と思われていたことが、くつがえされるということが起こります。イエスはこう言われました。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。…求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない…(6章27〜30節)」と。

 この驚くべき気前よさは何でしょうか。これはもう単なる優しさとか親切心とかの域を超えています。「敵を愛し…」と言われる最初の「敵」という言葉を「壁」という言葉に置き換えるとどうなるでしょうか。すぐに多くの壁がわたしたちの周りにつくられていることに気付くと思います。壁はすぐにできてしまいます。一方できた壁を取り除くことは容易ではありません。「敵を愛する」ということ、これはわたしたち自身の問題なのです。

 ですからイエスはこう言われました。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(31節)」と。つまり人との関係において、どんな壁もつくらないことに決めなさい!と言われました。十字架の道を進まれる方がそう言われたのです。またこうも言われました「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい(36節)」と。これはイエスご自身が旨としておられたみ言葉にほかなりません。

 創世記45章に記されているヨセフが兄たちに対して語った言葉が思い起こされます。ヨセフはかつて兄たちによってエジプトに売られたことへの仕返しをする絶好の機会を得たにもかかわらずこう語りました。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです…」と。このヨセフの言葉は、そのところにあった隔ての壁を取り除き、共に生きる道を拓くものでした。ここに福音の大いなる響きがあります。  UP 
 2010年2月
子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。 (マルコによる福音書10章14節) 


 わが子の健やかな成長を願う親の思いは、いつの時代も変わることはありません。子供が成長するにつれて、いろいろな心配事も増えていきますが、その一つ一つの経験が次の成長につながってほしいと親は願い続けるのです。
 おそらく子供たちはわたしたちが想像する以上に、日々新しい事柄に出会い、多くを学び、吸収しているに違いありません。そのような子供たちが健やかに成長していくために、是非必要なことの一つはやはり親の存在です。どのようなことがあっても自分を見守り受け入れてくれる、そのような存在が子供たちに与える安心感は計り知れません。この安心感が子供を成長させると言っても過言ではないでしょう。

 それだけに昨今親子をめぐる痛ましい事件が後を絶たない現実は、わたしたちにも深い問いかけとして迫って参ります。子供だけでなく親も本当の安心感を必要としているのではないでしょうか。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」とのマルコによる福音書10章13節の御言葉は、この本当の安心感に触れているように思います。「人々が…連れて来た」となっていますが、連れて来たのはおそらく母親でしょう。イエスに触れていただくため、つまり祝福していただくためです。この物語の中心はこの祝福にあります。

 よく読んでみますと、この物語は子供たちが直接イエスのところにやって来たのではなく、母親が連れて来ています。決して穏やかではない時代にあって、わが子の無事を願い健やかな成長を祈る母親の切実な思いがここにあります。彼女たちはわが子を思う一心から、イエスの祝福を求めてやって来たのです。ところが「弟子たちはこの人々を叱った(13節)」と記されています。当時女性や子供は集会などに参加する資格がないとして軽んじられていたからだと思われます。しかしこのときイエスはこう言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである(14節)」と。

 そうです。イエスは弟子たちに子供のようになること、つまり神の前にへりくだることを求められました。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された(16節)」のです。この祝福の中に本当の安心感があります。わたしたちもこの確かな恵みをひたすら求めたいものです。  UP  
 2010年1月
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。(ルカによる福音書4章1〜13 節) 

『た だ 主 に 仕 え よ 』
 わたしたちにとって「誘惑」とか「試練」はどのような意味を持つのでしょうか。あるいは「誘惑」や「試練」に対してどのように立ち向かえばよいのでしょうか。 ルカによる福音書4章には、イエスが荒れ野で悪魔の誘惑にあわれたことを記しています。イエスはその巧みな誘いに対してどのように立ち向かわれたのか、心してききましょう。

 まず1節に「イエスは聖霊に満ちて」とあります。これは直前のところで、主が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天が開けて、聖霊がこの方の上に降ったことを指しています。この時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が天から聞こえました。イエスは父である神の御心に適う僕として立てられ、十字架への道を御心として受けとめられたのです。そして与えられた道に向かわれるその途上で、悪魔の誘惑を受けられました。2節が告げるとおり“受けられた”のであって、折悪く誘われたのではありません。しかも1節に「“霊”によって引き回され」とありますように、この試みは悪魔の発案などでは決してなく、神のご意志によってなされました。わが子を愛すればこそ、試みの中に置かれたのです。

 さらにまた2節の「40日間」という言葉も、この誘惑の背後に神の深い御心があることを物語っています。かつてイスラエルの民は荒野で40年もの間、試みの中に置かれました。そして、人はパンだけで生きるものではなく(申命記8:3)、神の言葉によってこそ生きるものであることを学んだのです。はかり知ることができない恵みがここにあります。

 そうです。イエスは正にこの恵みに立って、この世の名誉や支配や繁栄や宗教的権威の座を見せて誘おうとする悪魔の誘惑を退けられました。このことは、イエスという方が、ご自分の名誉を高くするためではなく、神の御心である十字架という苦難の道を選び取られたことを強く示唆しています。イエスがここで何を退けられたのか、そして何を選び取られたのかをしっかり見据えたいものです。

わたしたちは「誘惑」とか「試練」を避けることはできません。ですから、試みに打ち勝たれたイエスを仰ぎつつ、また「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ、ただ主に仕える(8節)道を進もうではありませんか。 UP 
 
 2009年12月
 
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 (ルカによる福音書2章11節)   

クリスマスツリーの飾り付けが始まり、わたしたちは間もなく喜びのときを迎えます。時代は暗さを増すばかりですし、明るい兆しはなかなか見えてきませんが、クリスマスのときは必ず訪れるのです。昔、旧約聖書の時代に預言者イザヤは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた(イザヤ9:1)」と告げました。闇を思わせるような時代でありましたが、イザヤは「大いなる光を見…光が輝いた」と告げ、神の救いのときの確かな訪れを待望したのでした。それから約700年後、この預言の言葉は実現しました。

 しかしイザヤが告げた「大いなる光」の訪れは衆目の中でなされたわけではありません。「世界ではじめのクリスマス」というクリスマスソングがあります。その第一節は「世界ではじめのクリスマスは、ユダヤの田舎のベツレヘム、宿にも泊まれず家畜小屋で、マリアとヨセフの二人だけ」となっています。この日の出来事に注目する人は誰もいなかったのです。ただ「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」との知らせを受けた羊飼いたちだけが駆けつけてきたとルカによる福音書は記しています。またマタイによる福音書も、不思議に輝く星が現れたこと、この星に導かれて東方の博士たちが遠路はるばるやって来たこと、大きな喜びのうちに幼子の前にひれ伏し、宝物をささげたことを記しています。ユダヤの多くの人々はこの日の出来事を知らないままでした。

 ここに、わたしたちに対する聖書の問いかけがあると思います。わたしたちはクリスマスの華やかさに目を奪われて、クリスマスの喜びの中心を見失ってはいないでしょうか。あの羊飼いや博士たちが受け取った喜びの知らせを、わたしたちは聞くことができているでしょうか。「今日ダビデの町で…」と天の使いは中心を指し示しています。イザヤが告げた「大いなる光」はダビデの町ベツレヘムに照り輝いたのです。宿屋にはマリアとヨセフが泊まる余地もありませんでしたが、救い主はこの町に確かにおいでになりました。それでは今、わたしたちにとってのベツレヘムとはどこでしょうか。わたしたちも、聖書の言葉に導かれつつ、この恵みの場所にぜひ集いたいものです。 UP 
 
2009年11月 

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカによる福音書6章31節) 


 最近、「愛」という言葉をよく耳にします。それは、わたしたちの周りから愛が失われつつあるという危機感のあらわれではないでしょうか。確かに、今その人が何を必要としているのかに思いを届かせない、身勝手で目に余る振る舞いが目立ってきているように思います。しかし問題はわたしたちの外にあると言ってはならないでしょう。この時代が抱えている問題は、結局わたしたち自身の生き方に深く関わっているからです。今、聖書は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と語ります。ごく当たり前のことが語られているようですが、果たしてそうでしょうか。この御言葉は、実は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい(ルカ6章27節)」という文脈の中で語られています。あなたのことを憎んでいる敵に対してさえ「思いを届かせなさい。愛をもって接しなさい」と語られているのです。

 わたしたちはこのような愛の必要性を思わないわけではないでしょう。しかしそのことを実践するとなるとどうでしょうか。真実な愛に触れ、またそれによって生かされ続けるのでなければ、敵さえも愛しひたすらに仕える愛の実践は難しいように思います。では敵意の壁さえも打ち破って仕える愛はどこにあるのでしょうか。同じルカによる福音書はよく知られている「善いサマリア人のたとえ」を10章25節以下に記しています。同胞のユダヤ人の旅人が深い傷を負って倒れているところを、普段ユダヤ人にうと疎まれていたサマリア人が通りかかり、何のためらいもなく、手を尽くして介抱したというたとえです。真実な愛はどのような隔てをも超えて働くということですね。真実な愛は、たとえ相手に憎まれても妨げられても、断念したり屈することのない“不変の愛”にほかなりません。
 そうです。神はこの愛を、独り十字架を負われたイエス・キリストのうちに示されました。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」この御言葉の究極の実践がここにあります。この神の愛に照らされ、生かされ 動機づけられるとき、わたしたちははじめて失われつつある 愛を克服することができるでしょう。イエスはたとえの最後 に「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。 心して聞き従いたいものです。 UP  
2009年10月 
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。  『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」  (マルコによる福音書4章1〜9節) 

「心の畑」

 収穫の秋を迎えました。先日フルーツ街道で知られる仁木町を通りましたが、稲穂は色づき、ぶどう やりんご狩りが始まっていました。誰もが成長と実りの喜びをひとしお感じるこの頃です。

 聖書の舞台であるパレスチナも、麦や果物の産地として知られています。ですから聖書には成長して実を結ぶことに触れた「たとえ話」が書かれています。あるときイエスも、畑に蒔かれる種の成長に着目して、「種まきのたとえ」を語られました。マルコによる福音書4章1〜9節です。ある種は道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまいました。別の種は石だらけのところに落ち、芽は出しましたが日が昇ると枯れてしまいました。また別の種は茨の中に落ち、伸びはしましたが茨にふさがれて実を結ぶことはできませんでした。しかしよい土地に落ちた種は成長して実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなったというたとえです。

 畑に種を蒔く場合、どうしても道ばたに種がこぼれたり、石地や雑草が生える部分に落ちてしまう種があることが、このたとえの前提になっています。誰もが成長を願いながら、様々な妨げのために実を結ぶまでには至らないものがあるという現実を踏まえて、イエスは聞く者に注意を促されました。

 ここでイエスが「種」という言葉で語ろうとしておられるのは、一人一人の心の畑に蒔かれた「神の言葉」です。わたしたちはどうしても見える部分の成長ということに気持ちも関心も向かいがちだと思います。しかしイエスは、目に見えない部分、つまり心の成長の大切さを語られました。心はデリケートですから、何気ない言葉でも大きな影響を与えることがあります。種が蒔かれても、地面が硬ければ根を張ることができませんし、またせっかく育ってきても雑草が覆いかぶさってくると成長が抑えられ、実を結ぶことができません。

 ではどうすれば蒔かれた神の言葉の種は、成長することができるのでしょうか。そのためには、混じり気のない「愛の心」が必要です。そして実はその愛の心を育むものもまた神の言葉にほかなりません。ですから神の言葉を、開かれた耳で聞き続け、自分に向けられている神の愛の深さに気付いて心を震わされることが大切です。そのとき本当の成長が始まるでしょう。「成長させてくださったのは神です(コリントの信徒への手紙一 3章6節)」と心から言えるわたしたちでありたいものです。 UP   
2009年9月 

 
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」   (詩編119編105節)
  

 「生きていく上で最も幸いなこと」  

 
わたしたちが生きていく上で最も幸いなこととは何でしょうか。その答えは、その人の人生態度によって異なるように思います。最も確かで頼りになるのは自分自身であると思っている人がいるとします。その場合その人にとって幸いなことは、自分の健康や将来への蓄えに不安がないことなどになるでしょう。家族の絆を最も大切なこととする人もいるかも知れません。その場合その人にとって幸いなことは、揺るぎない家族との絆ということになるでしょう。

 しかしこの詩編119篇の詩人にとって最も幸いなことは、その何れでもありませんでした。もちろん自分の健康や将来への蓄え、家族との絆などをどうでもよいことと思っていたわけではありません。どうしてそれらを願わないということがあるでしょうか。ただ重要なことはこの詩編119篇の詩人の人生態度にあります。この人にとってそれらのことは大切なことではありますが、真に依り頼むべきものではありませんでした。

 ではこの人とって真に依り頼むべきものとは何であったのでしょうか。それは神の御言葉にありました。105節でこの人は次のように言い表しています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」と。短いひと言ですが、この言葉に、この詩人が176節まであるこの長い詩編の中でぜひ語りたいと願っていることのすべてが凝縮していると言うことができるでしょう。

 「神よ、わたしの人生はよいときばかりでなく、最悪と思われるような困難や苦しみを味わうときもありました。けれどもあなたはどのようなときにあってもわたしを見離すことなく、御言葉によってわたしを慰め、生きる希望を与え、支え導いてくださいました。神よ、あなたの御言葉こそ、わたしの道を照らす真実な光です」この詩人にとって最も幸いなことがここにあります。

 同じ詩編の9節でこの人は若い人のことを心にとめて、「どのようにして、若者は、歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」と語りかけています。若いときの迷いや挫折を経験する中にあっても、御言葉は「わたしの歩みを照らす灯」にほかなりません。わたしたちの幸いもまたここにあります。UP  
2009年8月 
  わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 (ヨハネによる福音書6:51-58) 

『 い の ち の 糧 』

 人が生きていくためには糧が必要です。この「糧」という言葉は、生きるために必要な食物をあらわすだけではなく、人を支え養うものを広く指して用いられる言葉です。聖書はこの糧のことを「パン」という言葉であらわしています。そしてこの「パン」は神から与えられる恵みであり賜物にほかなりません。

  しかしこの「パン」は、わたしたちがいつも豊かさと喜びに満ち溢れていることだけを意味しません。なぜなら、神はわたしたちに実に様々な味のするパンをくださるからです。聖書には、喜びのパンを食することも語られていますが(コヘレト9:7)、むしろ辛苦の糧をいただくという意味で語られることの方が多いと言えます。かつてイスラエルの民が、生けるまことの神を捨て、偶像の神々に思いを向けて貪りの罪を広げたとき、神は災いと裁きをもたらすパンを彼らに与えられました。イザヤ書30章20節に「わが主は、あなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」とある通りです。

 このように神はわたしたちに、時には喜びのパンを与えられますが、むしろそれ以上に苦い涙のパンを、さらには裁きのパンを与えられます。そしてそれが「糧」ということです。ですからわたしたちは、そのすべてを神からのものとして謙虚に受け、これを味わい、神の御心への立ち返りの時とするのでなければなりません。

  イエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである(ヨハネ6:51)」と。さらに「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない(6:53)」と言われました。主イエス・キリストは、このパンをわたしたちに差し出すために、天から降って来られ、人となられ、肉において苦しみを受けられ、これを裂かれたのです。この命と恵みの糧を心から受ける以外に、わたしたちに生きる希望があるでしょうか。わたしたちの生活のすべてにおいてこの方を受け入れ、従っていくものでありたいものです。 UP  
2009年7月 


「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節) 

 新聞やテレビで月探査のニュースや宇宙の起源に関する最新情報が取り上げられることがあります。月や宇宙の成り立ちを探求して知ることは、地球の成り立ちを知ることにもつながるので、この探求はもっともっと続けられるに違いありません。

 このようなあくなき探求の試みは、わたしたちのルーツを明らかにしたいという欲求のあらわれでもあるでしょう。科学の力はその欲求にある程度答えてくれるはずです。しかしそれはわたしたちが知らなければならないことの一部分でしかありません。

 実は聖書の最初の書である創世記は、わたしたちのルーツについて極めて重要なことを教えています。1章1節の「初めに、神は天地を創造された」がそれです。わたしたちはどこから来て、どこへ行こうとしているのか、この根源的な問いに対する答えがここにあります。どのような存在もそのルーツは神にあるのだと告げられているのです。

 一方、すべての存在は偶然の積み重ねの結果であると考える人たちもいます。たしかにすべてを進化という視点から説明するなら、そのような結論になるかも知れません。しかし聖書は「初めに、神は天地を創造された」と告げ、どのような存在にも神のご意志が置かれているのだと力強く宣言するのです。とりわけ人間は、このような神のご意志を知ることができる存在として創造されました。これこそがわたしたちのルーツです。アウグスティヌスという神学者は「告白」という書物の中で、自分を創ってくださった神と出会うまでは本当の平安を得ることはできないのですと記しています。

 そうです。すべての人は神と向き合うかけがえのない存在として創られました。創世記はそのことに触れて「神は御自分にかたどって人を創造された(1章27節」と明示しています。わたしたちが生きることの意味は、まさにこの神のかたちにあります。神はわたしたち一人一人に置かれているそのかたちに向けて「わたしはあなたの創造主である。わたしに聞きなさい」と呼びかけてくださるのです。これを聞き、これに心から応えて生きるわたしたちでありたいものです。  UP  
 
2009年6月 

「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」「しかし主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」 (ヨエル書3章1〜2、5節)  

  『主の御名を呼ぶ者は皆、救われる』
 ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。この日聖霊の注ぎを受けたペトロは他の使徒たちと共に立ち上がり、声を張り上げて話し始めまます。「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです…(使徒言行録2章15、16節)」 と。

 預言者ヨエルの出生のいきさつの詳細は不明ですが、彼が神殿礼拝に深い関心を寄せているところから「神殿預言者」とか「祭儀的預言者」と呼ばれています。またヨエル書の成立年代としてはバビロン捕囚後の早い時期が考えられます。おそらくヨエルは、バビロン捕囚から帰ってきた人たちを励まし導いたハガイやゼカリヤと同時代の預言者であったでしょう。

 ヨエル書の中心となる主題は「その日」すなわち「主の日」です。彼にとってこの日は、審判と救い(回復)の日でした。彼はその時代の人々だけでなく、後の世の人々に向かっても語ります。「 その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ(1、2節)」と。

 「すべての人に…」とは、神の霊の注ぎがイスラエルという枠を越えていることを意味します。ですから今大切なことはイスラエルの民であるか否かではなく、神の霊が世代を超えて注がれ、そして「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる(5節)」ところにあります。そしてまた「あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」のです。今やすべての人に、全世代の人たちに、神の言葉が与えられ、老人は夢を見、若者は幻を見、息子や娘は神の言葉を語り始めます。神の霊を受けた人々は、主の御名を呼び始め、夢や幻によって励まされ強められて語り始めるのです。そして誰もその働きをとどめることはできません。ここにわたしたちの希望があります。  UP  
  
2009年5月 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。ヨハネによる福音書15章5節 


 聖書のみ言葉は、そのどの部分を切り取っても「生きた神の言葉」です。しかしただ漫然と書き記されているのではなく、一つの中心を目指して書き記されています。聖書は数千年にわたって、様々な状況の中で語り継がれ、また書き記されてきたにもかかわらず、不思議としか言いようのない一つの明確な方向性と中心を持っているのです。ヨハネによる福音書はそれを「わたしはぶどうの木」というみ言葉によって示しています。つまりイエスこそ聖書が指し示している中心であり、わたしたちがつながっているべきお方にほかなりません。
それでは、わたしたちがイエスその方とつながっているとは、どのようなことなのでしょうか。わたしたちはつい自分の努力や頑張りに思いを向けてしまいがちです。必死でしがみついているというイメージを持つ場合もあるかも知れません。しかしここでみ言葉は、わたしたちがどのようにイエスにつながっているかということよりも、むしろイエスにつながって生きることのかけがえのなさに強調点を置いているということが大切です。ですから、「どうやってつながっていようか」に終始するのではなく、むしろイエスとの生命的なつながりの中に召されている自分に気づいて、いのちを豊かに受けて生かされている、その恵みに思いを注ぎたいと思います。

 そうです。わたしたちの生と死の中心に、わたしたちを決して裏切ることのない方が訪れてくださいました。この方は罪ある者のただ中に身を置き、本来わたしたちが負うべき十字架を、身を低くして、最後まで負い抜いてくださったのです。イエスにつながって生きるとは、この方の十字架の赦しの恵みに与り、この方がくださる命を生きることにほかなりません。わたしたちはすでにこの方の枝なのです。 UP   
2009年4月 
 
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカによる福音書24章28〜35節)
  

 ルカによる福音書24章には、イエスが復活された日の出来事が記されています。この日、二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かっていました。二人はイエスが十字架にかけられて死なれたことに強い衝撃を受け、失意のあまりこの町にとどまっていることができなかったのだと思われます。

 ところがそのような二人に、復活されたイエスが出会ってくださいました。彼らに近づき、同伴者となって言葉を交わしながら、聖書を解き明かしてくださったのです。聖書には「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された(27節)」と記されています。どれくらいの時間がたったでしょうか。やがて一行が目指す村が見えてきました。そのときです。二人はイエスに「一緒にお泊まりください」と、自分たちの家に強く引き止めました。彼らをそうさせたのは、旅人に対するもてなしの思いからだけではなく、イエスに対するあつい思いがあったからに違いありません。

 さて夕べの食事となったとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。そのとき二人の目が開けたのです。つまり、ここにおられるのは復活されたイエスなのだと分かりました。二人はこう言っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか…」と。

 気がつくとイエスの姿は見えなくなっていました。二人は自分たちをここまで導いてくださったお方への感謝の思いで一杯だったことでしょう。彼らの燃える心は本物でした。イエスがみ言葉の火をともしてくださるとき、その火は聞く人の心の中で赤々と燃えはじめ、もはや消えることはありません。

 ルカによる福音書はこのようにイエスが復活されたことを生き生きと伝えています。復活のイエスは今もわたしたちを訪れてくださいます。「主よ、お泊まりください」と迎え入れるわたしたちでありたいものです。 UP  
 2009年3月 

 「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。『だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。』  しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。」  (マルコ1章40〜45節)  

 わたしたちの時代は深く病んでおり癒しを必要としています。どこに癒される望みがあるのでしょうか。 マルコによる福音書1章節以下に耳を傾けましょう。

 ここには一人の重い皮膚病を患っている人がイエスによって癒されたことが記されています。当時重い皮膚病は律法の規定から「汚れ」と結びつけられ、誰もがそれとの接触を避けていました。しかしイエスはこのようなユダヤ 社会の通念を打ち破り患部に触れることによってこの人を絶望的な苦悩から解き放ってくださいました。この人に対する深い共感と憐れみの御心によってそうされたのです。

 いやそれだけではありません。イエスはこの人の信仰を見られました。こう記されています。「イエスのところに来て、ひざまずいて願い『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」と。これは「わたしに触れて癒してください」という直接的な言葉ではありません。そうは言わせないユダヤ社会の現実が、この人の言葉に陰を落としているのかも知れません。

 しかし今彼はそのような現実のただ中にあって「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と申しました。この言葉に果たしてどれほどの思いが込められていたのでしょうか。すなわち癒されない場合もあり得るという意味での譲歩です。突きつけられている現実があまりにも過酷なので、この人は「御心ならば」としか言えなかったということでしょうか。

 しかしイエスはこの言葉の中に、この人の信仰を見られました。「御心ならば」とは、現実がどれほど過酷であってもこの方は決してお見捨てにならないとの信頼の言葉にほかなりません。十字架上で「なぜわたしをお見捨てになったのですか (15:34)」と言われるほどの苦しみを味わわれる、その方への信頼です。そして今、正にその方が、誰も触れようとしなかった現実に手を差し伸べ、患部に触れくださいました。病める者を癒し、清め、新たな道を歩ませてくださったのです。時は満ち、神の国は近づきました(1:15)。 わたしたちの希望もまたここにあります。
UP  
2009年2月 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」  (マタイ7章7〜8節)  

今わたしたちの時代は、大きな危機を抱えています。壊れるはずがないと思われていたものが壊れ、行き詰まり、なかなか先が見えてきません。確かなものを見出すことができないのではないかという不安と恐れが、多くの人たちにのしかかってきているのではないかと思います。そしてそのような中で、わたしたちもまた、真実なものを求めることに疲れを覚えたり、あきらめたりしてしまってはいないでしょうか。

 実は聖書の時代の人々も同様でした。あまりに過酷な日々の生活のために、人々は生きる意味や目的を真剣に問うことを先送りにしていたのです。だからこそイエスは「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と言葉を重ねて語りかけられました。これらの言葉は「求めなさい」に要約されるとも言えますが、探すような求め方、門をたたくような求め方など、局面の違いを意識して語られたのではないかと思われます。いずれにしてもイエスは、わたしたちが求め続けることの大切さを教えてくださいました。

 わたしたちは求める前からあきらめてしまっていたり、自分なりの結論を出してしまっていたりすることがあるのではないでしょうか。しかし、イエスはこう言われるのです。「どんなに悪い人でも、自分の子供には良い物を与えることをあなたがたは知っているはずだ。まして神は、求める者に良い物をくださるに違いないではないか」と。
 そうです。わたしたちの求め、わたしたちの祈り、わたしたちの切なる願いに耳を傾けてくださる方がおられるのです。最善の道を備えてくださる方がおられます。もちろんすべてのことがわたしたちの願い通りになるということではありません。願いがかなえられないのではないかと思えるときもあるでしょう。しかしわたしたちが切に祈り求めるとき、神はすべてのことに思いを届かせつつ、最善の道をもって応えてくださるのです。神に対するそのような深い深い信頼に立ちたいと思います。そのとき、わたしたちの求めは他の人の必要をも含めた祈りへと導かれるに違いありません。  UP  
2009年1月
 
その翌日、ヨハネは、自分の方へエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 (ヨハネによる福音書1章29〜42節)
 

 わたしたちがそれぞれに与えられている人生においてイエス・キリストその方と出会い、その方と向き合い、その方のうちにとどまるということが何を意味するのか、共にみ言葉に耳を傾けましょう。

 ヨハネによる福音書はわたしたちの主イエスとの出会いがすれ違いに終わってしまわないように、洗礼者ヨハネという一人のあか証しびと人を特徴的な仕方で登場させます。彼はユダヤの荒れ野で人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川において洗礼を授けていました。ヨハネは自分がほどなく来られるメシアへの道備えのために立てられているという明確な自覚を持ちつつそうしていたのです。彼に対する関心は高まり、ヨハネこそがメシアではないのかという声すらありましたが、彼はそれをはっきりと否定して、わたしは荒れ野で呼ばわる者の声にすぎないと語りました。

 ヨハネの課題は、来るべきメシアその方を迷いなく指し示すというものです。そしてついにその時が来ました。彼の許にぞくぞく集まってくる人々の中に主イエスその方を見出したからです。洗礼者ヨハネの心は躍ったに違いありません。そしてこの方こそ待ち望まれた方であるとの確信に満ちて、彼は「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と証ししたのです。しかしヨハネはこのときなぜ「世の罪を取り除く」と言ったのでしょうか。また「世の罪」すなわち人間の罪とは何でしょうか。

 それは人間が神と人に対して犯した高ぶりの罪のことです。この罪は、神の御子を人間が裁いて十字架につけたことによって決定的なものとなりました。この罪は積み重なることはあっても、誰一人これを取り除くことは出来ません。それが人間の罪の現実です。その重さはどれほどのものでしょうか?誰もその罪のあたい を計り知ることは出来ませんし、その負い目に耐えることの出来る人間は一人としていません。

 ところが今やその罪とそれがもたらすものの全てを負い抜いてくださる方が世においでくださったのです。この方は誰よりも低いところに身を置いてくださいました。黙々と毛を切る者に身をまかせる羊のように、この方は十字架刑を求める者たちに身をまかせられたのです。そして傷つけられ死なれました。しかし正にその打たれた傷によってわたしたちの罪の傷口はふさがれたのです。この方こそヨハネが指し示した方にほかなりません。

 終わりに12章46節を聴きましょう。「わたしを信じる者が誰も闇の中にとどまることがないように、わたしは光として世に来た」 わたしたちのとどまるべきところがここにあります。      UP  
 
  
  

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日本キリスト教会札幌琴似教会

〒063−0842 札幌市西区八軒2条西1丁目3−1
牧師 久野真一郎

伝道開始 1930年  教会創立 1949年7月24日