聖書からのメッセージ


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2007年〜2008年 
2008年 12月 ルカによる福音書2:1
11月 ヨハネによる福音書15:12
10月 コリントの信徒への手紙T 3:6
9月 詩編23:1
8月 マタイによる福音書7:7
7月 ョシュア記1:9
6月 ヨハネによる福音書15:5
5月 ヨハネによる福音書10:11
4月 ヨハネによる福音書10:9
3月 エフェソの信徒への手紙5:8
2月 マルコによる福音書10:14
1月 マタイによる福音書3:17
2007年 12月 マタイによる福音書1:23
11月 ルカによる福音書6:31
10月 マタイによる福音書5:14
9月 詩編119:105
8月 ヨハネによる福音書15:5
7月 創世記1:1
6月 コリントの信徒への手紙T 3:6
5月 ヨハネによる福音書10:11
4月 ヨハネの手紙T 4:16
3月 エフェソの信徒への手紙T 5:8
2月 ヨシュア記 1:9

2008年12月
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 」 (ルカによる福音書2章1〜20節) 
 ユダヤのベツレヘムの野辺に、かつてない知らせを受け取った人たちがいました。羊飼いたちです。彼らは大変貧しい人たちでしたが、この日聞くことができた知らせは、心躍らされるような希望に充ち満ちた知らせでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(11-12節)」と。

 御子キリストは、高い身分や権力の座を選んでおいでになられたのではありません。そうではなく、無力な乳飲み子として生まれ、誰も振り返ることさえしない貧しさと弱さの中に身を置かれました。しかしだからこそ、このおとずれは誰をも裏切ることなく、まことに救いの光として、力なき者たちを、そしてわたしたちを包み込むのです。ここに、希望と慰めがあります。

 そうです。御子のおとずれは、自分をより大きくしようと競い合い、権力抗争に明け暮れているこの世界に対する、神さまからの問いかけでもあるということです。他者が本当の意味で顧みられることなく築き上げられるものに、どうして人を生かす恵みが宿るでしょうか。平和が保たれているように見えていても、それが他を圧する力の上に成り立っているのだとしたら、それは実に危うい支配であり、壊れやすい平和でしかないと言わなければなりません。

 ところが御子キリストの平和はそうではありません。一見それはあまりにも小さく、弱く、取るに足りないものに思えることでしょう。御子は無力な乳飲み子として、飼い葉桶の中に寝かされているからです。しかしこの方は「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす(1:52-53)」ために来られました。ご自身のすべてを差し出して、あらゆる隔ての壁を取り除くために、わたしたちの世を訪れてくださったのです。この方こそ、「地には平和、御心に適う人にあれ!」と御使いたちがほめ歌う“平和”をもたらす方にほかなりません。わたしたちも、羊飼いと共に、その方の許に急ぎ行きましょう! UP 
2008年11月
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」  (ヨハネによる福音書15章12節) 
 十字架のときを前にしてイエスは「互いに愛し合いなさい」と言われました。ところがよく考えてみますとこの言葉には、一つの問いが含まれていることが分かると思います。「どの範囲の人までを愛するのか」という問いです。夫婦や家族や親友など、近しい人たちとの間で愛し合うということはすぐに思いつくことですが、もしその範囲を超えるとなるとどうでしょうか。さらにまた「隣人を自分のように愛しなさい(ルカ10章27節)」と告げられている聖書のみ言葉とのつながりはどうなるのでしょうか。

 ルカによる福音書10章25〜37節に記されている「よきサマリア人のたとえ」に思いを向けたいと思います。たとえは瀕死の傷を負った人のそば側を、ユダヤ人であり宗教的指導者である祭司とレビ人が通り過ぎて行ったと語り始められています。同じユダヤ人である旅人が、明らかに助けを必要としているのに無視したのです。彼ら自身にどのような言い分があるとしても、彼らは深い傷を負った旅人の隣人になることはできませんでした。

 一方、祭司とレビ人が通り過ぎていった後、旅をしていたサマリア人は、傷つき倒れた旅人に対して考え得る限りの介護をしました。当時多くのユダヤ人にとってサマリア人は、過去のいきさつから不浄な人たちと考えられていました。つまり隣人のリストにサマリア人は入っていなかったのです。

 ところがこの日そこを通りかかったサマリア人は、何のためらいもなくユダヤ人である旅人に近づき、その人の傍らに身を置いて、最後の最後まで行き届いた介護をしたのです。 このたとえを終えて主イエスは、律法の専門家に対して「行って、あなたも同じようにしなさい(37節)」と言われました。わたしたちもこのお言葉を、何の前提をも持ち込まないで聞き、そして従いたいと思います。なぜなら、そのように言われるイエスご自身が罪あるわたしたちのために身をかがめ、すべてを十字架にささげてくださったからです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ15章12節)」この主のみ言葉の真実に生きるわたしたちでありたいものです。   UP 
2008年10月
「成長させてくださったのは神です」 (コリントの信徒への手紙一 3章6節)  
「成長」という言葉は、わたしたちが特に子供と向き合うとき、心に響く言葉ではないでしょうか。子供の健やかな成長を願わない親はいないはずです。ところが昨今、その願いそのものが壊れてしまう場合があるのだということを悲しいニュースによって知らされ、本当に胸が痛くなります。

 子供の成長ということを丁寧に考えることが求められているのだと思います。子供はいろいろなことを経験し、いろいろなものを吸収して成長していく力を持っています。ですから子供の心の畑は、できるだけ柔らかであることが大切でしょう。もちろん成長するということは、知的な発達を含みます。けれども大切なことは、一人一人の子供の心の豊かさではないでしょうか。  わたしたちは経験的に、子供の心の豊かさは、何かを押しつけるような仕方で育つものではないということを知っていると思います。ところがそのことは分かっているはずなのに、つい力が入ってしまうのがわたしたちの現実かも知れません。皆さんの場合はいかがでしょうか。

 実は教会でも同じようなことがありました。教会で一番大切なことは、神の御言葉に共に心を開くことです。そして神の限りない愛に触れるとき、一人一人の中に神と人を愛する心が育まれていきます。ところがコリントの教会では皆が神に心を向けるのではなく、人に心を向けました。どの指導者が優れているかをめぐって競い合いが起こり、分裂状態になってしまったのです。

 伝道者・パウロはそのことを大変心配して手紙を書き送りました。確かにこのコリントの教会には、パウロやアポロやペトロというような人たちが指導者として関わりました。しかし教会の人たちが指導者の評判のようなものに心を動かされたために、つまり心を神に向けるのではなく人に心を向けることに力を注いだために、最も大切なものが見失われてしまったのです。そのためパウロはこう書き記しました。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と。

 「成長しなきゃ」「成長させなきゃ」と思い、つい力が入ってしまうわたしたちです。そして思うにまかせないとあせり、悲観し、落胆してしまいます。しかし今わたしたちは、「成長させてくださったのは神です」と聞きました。神の限りない愛の御心こそが、わたしたちの心の畑に愛を芽生えさせ、心を豊かにし、愛に生きる者へと育んでくださるのです。わたしたちの希望がここにあります。UP 
2008年9月
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」 (詩編23:1) 
 もしある人が考えられる限りの苦悩を経験した後で、「わたしはもう疲れ果てました。何も残っていません」ではなく、「わたしには何も欠けることがありませんでした」と言ったとしたら、わたしたちはどう思うでしょうか。強がってそう言っているだけではないかと思うでしょうか。しかしもしその人が本心からそう言っているとしたらどうでしょう。聖書の言葉は、そのような不思議さにあふれています。

 さて「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と歌ったのはダビデという人です。彼はイスラエルの最も偉大な王として知られていますが、その道はいばらの道でした。彼は前王サウルに妬まれることとなり、荒れ野での逃亡生活を余儀なくされます。また王に即位した後も、彼は他人の妻を奪うという重罪を犯しました。そのため預言者ナタンによって厳しく断罪され、最初に与えられた子も七日目に死んでしまいます。さらに息子アブサロムに裏切られ、結果として息子を失うという深い悲しみを味わうことになりました。このようにダビデの生涯は波乱に満ちていたと言えるでしょう。

 しかしダビデという人は、神に対して実に正直な人でした。つまり自分の思いを先立てるのではなく、常に神の御心を求めたのです。確かに罪の誘惑に負けてしまったときもありましたが、罪を指摘されたとき、「わたしは主に罪を犯しました」と自らの罪を率直に認め、深く悔いています(サムエル下12:13)。詩編二十三編は、そのようなダビデがかなり年を重ねて、自らの生涯を振り返りながら歌ったものと思われます。

 彼はここで「わたしには何も欠けることがない」と言い表しています。しかしその前の言葉「主は羊飼い」あるいは「主がわたしの羊飼いであってくださるので」が重要です。なぜなら、この言葉は「欠けることがない」を説明しているからです。ちょうど羊飼いが羊を守り、迷子の羊を探しに行き、羊の群れを命がけで守るように、神はこのようなわたしのことを常に守ってくださり、わたしがどこにいても御心を届かせてくださる。わたしに対する神の慈しみは常に満ちていて少しの不足もない。これがこの歌の意味です。神への深い信頼に生きたダビデにわたしたちも続きたいものです。 UP
 
2008年8月
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」   (マタイによる福音書7章7節)
 イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。これはマタイ福音書5章から始まる山上の説教の終わりに近いところで語られているみ言葉です。多くを語ってこられた後で「求めなさい」と言われました。確かに何が語られても「求める心」がなければ、その言葉はただ通り過ぎていってしまうものになるでしょう。

 それでは「求める心」とは何でしょうか。自分の足りなさを感じるから求める、欠けを感じるから求めるということがあると思います。足りなさや欠けを強く覚えれば覚えるほど、その求め方は強く、切実になるに違いありません。

 しかし問題があります。もし「求める心」が、ただわたしたちの熱意にかかっているとすれば、すぐに結果が出ない時、わたしたちはひどく落胆することになるのではないでしょうか。

 それでは、イエスが「求めなさい。そして、探しなさい。」と言われた真意はどこにあるのでしょうか。注目したいのは「そうすれば、与えられる。…そうすれば、見つかる。」と言われていることです。「与えられるかも知れない。…見つかるかも知れない。」というのではなく、確かな約束として「与えられる。…見つかる。」と言われています。この約束への信頼が大切なのです。

 何をするにしても自分次第ということではなく、わたしたちが自分を知る以上に、わたしたちのことを知っていてくださる方が、最善の道を備えてくださるのだとの信頼の中で求めること、それこそが、より深い意味での「求める心」にほかなりません。この信頼の中で、ぜひあなたも求めはじめてください。UP 
2008年7月
「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」   (ヨシュア記1章9節)
 
 昨今の事例を挙げるまでもなく、わたしたちが生きている時代は、今多くの不安と痛みを抱えています。そのような中にあってわたしたちは、どこに生きることの確かさを見出そうとしているでしょうか。あるいはどこに確かさを見出すことができるでしょうか。聖書が語るところに耳を傾けましょう。

 与えられているみ言葉は出エジプトの困難な旅路の指導者であったモーセの後継者ヨシュアに語られました。モーセもエジプトに遣わされる前、同様の神の言葉を聞いています(出エジプト3章12節)。そのみ言葉は「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」です。「あなたがどこに行っても」と言われています。これは、あなたがどのような困難に立たされるとしても、神は決してあなたを見捨てられることはないという意味です。このようなみ言葉を聞くことができたら、何と心強いことでしょうか。

 モーセもヨシュアも極めて困難な荒れ野の旅路を経験しました。約束の地に実際に入ることが許されたのはヨシュアでしたが、それも気が遠くなるほどの困難が予想されるもので、彼は大変な重圧を感じたことでしょう。二人は周りの目に見えるものの中には確かなものを見出すことはできませんでした。二人にとって確かなものは、ただ神の約束の言葉だったのです。すなわち「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とのみ言葉でした。

 このみ言葉は二人にとって決定的な支えとなったことはもちろんですが、それだけではありません。二人に導かれたイスラエルの人々も、神が共にいてくださる以上に確かなものはないということを知るに至りました。40年にも及ぶ荒れ野の旅は無駄ではなかったのです。イスラエルの民は長期にわたる旅路の中で、「本当に神さまはいてくださるのか」と気持ちがぐらつくこともありましたが、どのような困難に出会っても、神は道を開き将来を与えてくださる方であることを学び取ることができました。神の訓練は厳しかったけれども、また恵みに満ちていたということです。

 同じ訓練とみ言葉が、今を生きるわたしたちにも与えられています。「わたしたちにとって本当に確かなものとは何であるのか」その問いを持ち続けましょう。そうすればモーセとヨシュアを支えたみ言葉が、わたしたちにも確かに聞こえてくるに違いありません。 UP 
2008年6月
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節)
 聖書の中にはぶどうの木やぶどう園の話が出てきます。ぶどうの栽培は昔から行われていて人々に親しまれていたことが分かります。ですからイエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われたとき、人々はこれを身近なこととして聞くことができたことでしょう。

 ところで、ぶどうの木は大変手のかかる樹木です。もしぶどうの木をまったく手入れをしないまま放置したら、3年くらいでダメになってしまうとぶどう園の人から聞いたことがあります。ぶどうの木は伸びた枝を切り詰めることで樹勢が保たれ、そこから生え出た枝にその年の実がつきます。もちろん適切な時期に肥料を施すことも欠かすことができません。

 イエスはこのようなことを十分ご存じの上で、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である(5節)」さらに「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている(4節)」と言われました。イエスは、ぶどうの枝が木すなわち幹にしっかりつながっていて養分を受け取り、豊かな実を結ぶことをイメージしてこのように言われたに違いありません。つまり「あなたがたもわたしにしっかりつながって、実を結びなさい。わたしから離れては実を結ぶことができません」と言われたのです。

 わたしたちはつい、ぶどうの木と枝がつながっていることは当たり前のことだと思いがちです。しかし最初に触れましたように、枝に実がついて房となるまでには手がかかるのです。わたしたちがイエスという幹につながっているということは自明のことではないということです。神が手入れをしてくださったので、つまり導いてくださったのでつながることができました。ですから大切なことは、わたしたちがこの恵みに気づいて、幹であるイエスとしっかりつながって離れないということです。

 イエスは少し後のところで「つながっていなさい」を言い換えて「わたしの愛にとどまりなさい」と言っておられます。わたしたちが生きることの意味を見出し、確かな実を結ぶためには、十字架の死を負ってくださるほどにわたしたちを愛してくださった、その愛に捉えられ、生かされることがぜひ必要です。わたしたちは自分では愛の実を結ぶことができません。ですからイエスの御声にしっかり耳を傾けて、御心を求めるようにいたしましょう。UP 
2008年5月
「わたしは良い羊飼いである」  (ヨハネによる福音書10章11節)
 最近はわたしたちの周りにあるものが本物か偽物か、その表示は正しいかどうかを見分けることがとても難しくなってきました。いわゆる振り込め詐欺のように息子と偽って相手をだます人も後を絶ちません。いかにも本物であるかのような顔をしてわたしたちに近づいてくるのです。ですからだまされないようにする判断力がどうしても必要となります。

 実は聖書の中にも本物と偽物についての話が出てきます。イエスが「わたしは良い羊飼いである」と言われたことはよく知られていますが、わざわざ自分のことを「良い」と言われたのには理由があるのです。

 イエスは聞く人たちが誰でも知っている羊飼いと羊の話をよくされました。羊は群れの中でないと生きていけない弱い動物です。ですから迷子になって群れから離れてしまうことは死を意味します。また羊を襲う猛獣や盗み出そうとする人もいましたので、羊の群れを守り導く羊飼いが絶対に必要でした。

 ところが羊飼いであれば無条件で安心できるかというと、そうではありません。羊をだまして連れ出そうとする偽の羊飼いがいました。また猛獣が襲ってくると羊を置き去りにして逃げ出してしまう羊飼いもいたのです。こういうわけですから、羊たちにとって重要なことは、自分たちのことをよく理解し、どんなことがあっても、自分を犠牲にしてでも自分たちを守ってくれる、そのような羊飼いと出会うということでした。

 イエスが「わたしは良い羊飼いである」と言われたのはそのためです。「良い」とは「本物の、真実な」という意味にほかなりません。もっともはじめに触れましたように偽物であっても本物と書いてあったりする時代です。わたしは偽物ですとわざわざ言う人はいませんね。その人が本物かどうか、どうしたら確かめることができるでしょう。その人の生き方をよく見るしかないのではないでしょうか。ですからイエスは続いて「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたのだと思います。実際羊を守ろうとして羊飼いが命を失うことがあったようです。ルカによる福音書には迷子になった一匹の羊を見つけ出すまで捜し回る羊飼いのたとえが語られています(15章1節以下)。

 聖書はイエスこそ偽りではない、本物の良い羊飼いであると証言しています。事実イエスは失われた人たちの側に立ち、最後まで身を低くして歩まれ、自らを差し出して十字架を負われました。わたしたちもこの方と出会い、この方に守られ導かれる者でありたいと思います。 UP 
2008年4月
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」 (ヨハネによる福音書10章9節) 
 イエスは「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と言われ、ご自分を「門」すなわち「羊の門(7節)」にたとえられました。羊の門というのは羊を入れるための囲みの出入り口のことです。暖かい季節になると羊たちは夜になっても村には戻らず、丘の中腹に設けられた囲みの中に集められました。それは村の羊小屋とは異なりただ石などの壁に囲まれているだけの空間です。そこには一箇所だけ出入り口すなわち門がありました。羊飼いは出入りする羊たちの様子をここで確認し、夜は門をふさぐように身を横たえて羊の群れの番をしたと言われています。つまり羊飼い自身が門の役割を果たしていたわけです。羊たちは門を通って出て行けば牧草にありつくことができ、また門を通って囲みに入ればもう安心でした。

 ですからこう言われています。「その人は、門を出入りして牧草を見つける。…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(9節、10節)」と。ここで大切なことが二つあります。一つはご自分の命を捨ててわたしたちを救ってくださったイエスその方を、かけがえのない救いの門として信頼し、離れないということです。いのちに至る道はこの門を置いて他にありません。

 今一つ大切なことは、この門を出入りするということです。「門」はわたしたちが出入りするためにあります。「出入りする」というこの言葉に注目しましょう。旧約聖書の申命記に「あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される(28:6)」、また詩編に「主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように(121:7-8)」とあります。つまり出入りするとは、わたしたちの人生そのもの、生きることそのものをあらわす言葉であるということです。

 人生には、積極的に物事をとらえ、新しいことにも挑戦してみようとする「出る」ときもありますが、すべてに消極的となり、わたしには何もできないと沈み込んでしまう「入る」ときもあることをわたしたちは知っていると思います。しかしその何れのときにおいても、イエスは見守っていてくださり、そこに最善の道を備えてくださるのです。わたしたちが心からの信頼をもって出入りすることができる門がここにあります。「わたしを通って救われよ!」このみ声にわたしたちも聞き従いたいものです。
 UP 
 2008年3月
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、 光となっています。光の子として歩みなさい。」 (エフェソ5章8節) 

  聖書には「光」とか「闇」という言葉がところどころに出てきます。特に聖書の冒頭のところで出てくる言葉なので注目したいと思います。こう書いてあります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」と(創世記1章1〜3節)。
 このみ言葉はただ聖書の最初の言葉であるというだけでなく、聖書全体の主題にもなっているという点で大変重要です。その主題とは何でしょうか。

 まず神が天地を創造されたときの、初めの状態が記されています。すなわち地はただうごめいていているだけで、すべてが混沌としていました。また闇がその全体を覆い尽くしていたというのです。聖書はここで天地の創造を科学的な観点から説明しようとしているのではありません。そうではなく、神の創造の御業の意味を語っています。つまり初めすべてのものは、たた定まりもなく動き回っているだけで、そこには何の意味も、目的もありませんでした。つまりまだ本当に存在している、あるいは生きているとは言えない状態だったということです。あるのはただ暗闇でした。しかし聖書は同時に「神の霊が水の面を動いていた」と語ります。この混沌と闇の世界は決して見捨てられてはいません。神はこの世界としっかり向き合っておられ、そこに御心を置いてくださっているのです。

 ではその御心とは何でしょうか。み言葉を聴きましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」と。神の決定的な御心がここに告げられています。「光」とは闇の支配に対する神の確固とした救いの御心を示しています。光が輝き始めた以上、闇は光にその支配を明け渡すしかありません。さらにこの光はやがておいでになる救い主を指し示しています。「闇から光へ」これが聖書全体の主題です。

 与えられているエフェソの信徒への手紙5章8節はまさにこの主題に沿って語られています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」と。ここには、暗闇の中にあって生きる意味も目的も持つことができなかった者が、キリストと出会い、キリストの光に照らされ、主キリストに結ばれることによって光の子とされることが、また光の子らしく生きていくことが呼びかけられています。キリストは十字架の死と復活の勝利によって闇の支配を無力にされました。キリストの光はそこから射し込んでくる光です。この光に照らされ、わたしたちも光の子として歩み始めようではありませんか。
 UP 
2008年2月
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)  
  イエスが子供たちを祝福されたということが、マルコによる福音書10章13〜16節に記されています。新約聖書の中で子供に焦点が当てられた数少ない物語の一つです。ここにはイエスによってもたらされた福音の輝きの深さがあります。それはどのようなものでしょうか。
 この物語のはじめは「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た(13節)」となっています。「人々が」となっていますが、連れて来たのはおそらく母親たちでしょう。わが子の無事を願い、健やかな成長を願う母親の思いはいつの時代も変わることはありません。彼女たちはわが子を思う一心から、イエスの祝福を求めてやって来たのです。
 ところが事はスムーズには進みませんでした。「弟子たちはこの人々を叱った(13節)」と記されています。母親たちがしようとしていることを弟子たちは阻止したのです。「ここは女性やまして子供が来るところではない」という彼らの判断が働いたものと思われます。当時一般的に女性や子供は集会などに参加する資格がないとして軽んじられていました。そういう意味で弟子たちがしたことは、今自分たちがしていることを妨げてくれるなという、その頃としては当然の反応だったと言えかも知れません。
 しかしこのとき、イエスは強い憤りを示されました。そしてこう言われたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである(14節)」と。この言葉の中に示されているのは、当時いと小さき者として軽んじられていた人たちに、イエスがどれほど深く思いを届かせておられたのかということです。それは弟子たちをはじめ一般に大人の男性が抱いていた思いとは全く異なるものでした。イエスは自分たちは神の国にふさわしいと考えている弟子たちに対して、子供のように純真で、どんなことでも全身で受けとめ、目を輝かせて求めようとする者こそが神の国にふさわしいのだと言われたのです。もちろんイエスのまなざしは子供たちを連れてきた母親にも注がれていました。
 わたしたちは、何が大切であるのか自分には分かっていると思いがちです。そのため、偏りのないまっすぐな心で真実を求めていく態度に欠けてしまうことがあるのではないでしょうか。イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(15節)」と。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された(16節)」のです。子供のような心を持つこと、つまり神の前にへりくだることが今わたしたちに求められています。
 UP
  2008年1月
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイによる福音書3章17節)
 わたしたちが聖書を読んでいくとき、何故だろうと首をかしげたくなるような箇所に出会うことがあります。マタイ福音書3章13〜17節もその一つだと思います。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことが記されているところです。いったい何故イエスは洗礼を受けられたのでしょうか。

 ある人はヨハネはイエスより優位にいると考えました。しかしヨハネ自身は「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか(14節)」と言っています。この頃ヨハネは悔い改めの洗礼を授けていました。「悔い改めは罪の赦しを求めるためには必要ですが、あなたにはその必要がないのではありませんか?」ヨハネはそう言いたかったに違いありません。ヨハネの優位性は彼自身が退けているということです。それではイエスの洗礼は何を物語っているのでしょうか。

 その答えは先ほどのヨハネの言葉、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」の中にあります。つまり本来わたしたちに洗礼を授ける立場にある方が、洗礼を必要としている罪ある者の立場に身を置いてくださったということです。イザヤ書53章12節はこのことに触れて「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」と告げています。イエスの洗礼はやがて自ら負われる十字架を指し示すものにほかなりません。

 さてヨハネが洗礼を授けたとき何が起こったかを聴きましょう。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた(16〜17節)」とあります。

 主イエスの受洗の際に神の霊が降ったということは、この方が十字架へと進む道に召されたことを意味します。そして主イエスは、この御父からの召しに対して従順であられました。十字架の死に至るまで従順を貫かれたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天からの声は、イエスこそ父なる神の救いの御心を欠けなく完全にあらわす方であることを明らかに示しています。ですからわたしたちもこの方の御声に心を傾けて、十字架の恵みを恵みとしていく歩みを始めようではありませんか。
  UP
 
  2007年12月
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイによる福音書1章23節
)
 クリスマスを迎えようとしています。クリスマスソングが鳴り響き、多くの人が心をときめかせる季節です。でもわたしたちは少し心を静めて、クリスマスがなぜ喜びのときなのか、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 実はマタイによる福音書が伝えている最初のクリスマスは、戸惑いと恐れから始まっています。マリアとヨセフは婚約していましたが、二人が一緒になる前にマリアは身重になりました。これが戸惑いと恐れの理由です。

 ユダヤでは「婚約」は結婚と同じくらい重んじられていました。ですからマリアが婚約の段階で身重になったということは大問題でした。もしマリアがヨセフ以外の男性と関係したことが明らかになれば、おきてに従って厳しく裁かれることになります。このためヨセフは悩み抜いたに違いありません。そして彼が出した結論は、法廷でマリアをさらし者にするよりも二人の証人の前で離縁状を与えて内密に去らせるということでした。1章19節には「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と記されています。

 しかしこのとき、み使いによって告げられた言葉が二人を救いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである(20〜21節)」とのみ言葉です。 マリアが身重になったのは、人の業ではなく聖霊のみ業である、つまり神さまがなさったことなのだとヨセフは知ります。こうして二人は次のようなクリスマスの喜びの知らせを聴くことになりました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる(23節)」と。

 これは旧約聖書イザヤ書7章14節が告げる神の約束のみ言葉です。神がこの約束を実現してくださるときがおとずれました。「インマヌエル」とは「神はわたしたちと共にいてくださる」という意味です。つまりわたしたちがどれほどの恐れに包み込まれるとしても、神は決してお見捨てにならず、生まれ来るイエスによって共にいてくださるのです。ヨセフはマリアを迎え入れ、クリスマスの喜びにあずかりました。わたしたちの喜びもここにあります。  
UP 
2007年11月
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」 
(ルカよる福音書6章31節) 
イエスが語られた「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」との教えは一般に「黄金律」と呼ばれています。自分がしようとしている行為をもし自分が受けた場合にそれを受け入れられるかという普遍的な基準がここに示されており、同じような教えが多くの宗教に見られるからです。「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」というように消極的な言い方がなされることもあります。言われていることは特別なとではなく当たり前のことではないかと思われるかも知れません。しかし果たしてそうでしょうか。イエスがどのような意図でそう語られたのか、ルカによる福音書が語っているところに耳を傾けましょう。

 まず気づかされることは、ルカはこと言葉を「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい(6章27節)」という文脈の中に置いているということです。つまりイエスが黄金律を語られる場合、それは敵をも愛する「愛」において語られているということを心にとめておかねばなりません。ここで用いられている言葉は「アガペー」というギリシャ語です。よく知られているヨハネによる福音書3章16節のみ言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」もやはり「愛(アガペー)」という言葉が用いられています。
  
それではアガペーとはどのような愛でしょうか。たとえば相手がわたしに悪意や憎しみを持っていることが明らかな場合、それでもその人に対する愛を貫くことができるかということを考えてみたいと思います。普通であれば愛はそこで終わってしまうということにならないでしょうか。あるいは打たれたのだから打ち返せという思いがわき上がってくるかも知れませんね。

 しかし神の独り子であるキリストによってあらわされたアガペーの愛はそうではありません。世が独り子を憎んでも、十字架にかけるほどに敵意をあらわにしても、それでも貫かれるもの、それが愛です。その愛は、決して断念したり屈したりしません。敵の憎しみさえ受け入れこれを和らげていく不変の愛です。わたしたちの愛もこの愛に生かされ、支えられ、この愛によって動機づけられるということが大切ではないでしょうか。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」このみ言葉にはキリストの十字架の愛が満ちあふれています。相手に対する深い思いやりと愛、何者にも妨げられない愛がここから出てきます。わたしたちもキリストの愛に生かされたいものです。   UP

2007年10月
「あなたがたは世の光である」 
(マタイによる福音書5章14節)
イエスは従ってくる弟子たちに「あなたがたは世の光である」とおっしゃいました。光の役目は暗い部分を照らすところにあります。ちょうどローソクの光が真っ暗な部屋を照らし出すように「あなたがたの光を輝かせなさい。光を覆ってしまうようなことがないようにしなさい」と言われたのです。

 しかし考えてみますと、ここで言われている「光を輝かす」とは、明らかにわたしたちの生き方に関わることですから、はい分かりましたでは済まないことになります。様々な問題を抱えているわたしたちの世にあって、光のように生きていくということはたやすいこととは思えません。

 そうです。もしこの光がわたしたちの中から出てくる光のことだとしたら、「わたしにはそれだけの力がありません。期待されてもそれに応えることができません。」ということになるのではないでしょうか。

 しかしここで言われている光とは、わたしたちの中からさ射してくる光という意味ではありません。そうではなく、イエス・キリストという光に照らされてその輝きを映し出す光という意味です。つまり光源はどこまでもキリストであって、わたしたちはその光を受けることで輝くのです。ちょうど反射板のようにです。そしてそれならばわたしたちは尻込みしなくてもよいはずです。

 ただし一つだけ注意すべきことがあります。それは反射板の向きの問題です。もし反射板がいつも自分勝手な動きをしているとしたらどうでしょうか。キリストという光を正しく映し出すことはできません。正しく映し出すためには、わたしたちがまっすぐにキリストの方向を向いていることが必要です。そしてその方向が正確であれば、わたしたちはすでに世を照らすキリストの光であるに違いありません。

 はじめに少し覚えましたように、わたしたちの世は実に様々な問題の渦中にあります。しかし絶望してはなりません。なぜならわたしたちは「あなたがたは世の光である」とのみ言葉を聴くことができているからです。ヨハネによる福音書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(3章16節)」と語っています。「お与えになったほどに」とはキリストが十字架に死なれたことを意味しています。それほどに神は世を愛されたのです。ですから、この十字架から射してくる光を受けて、この愛の光を人々の間に輝かせましょう。人の悲しみや苦しみに共感し、曇りのない清い心で隣人に仕え、誰もが大切にされる平和を創り出すために、ぜひそうしたいと思います。 UP
 
2007年9月
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」  (詩編119編105節) 
 わたしたちの人生は旅にたとえられたり、山登りにたとえられたりします。今、山登りをイメージしてみましょう。ちゃんとしたコースであればところどころにリボンやペイントが塗られた道しるべがありますね。わたしはガスがかかった山道でこの道しるべに助けられた経験があります。九州の久住という山でした。難コースであればあるほどその重要さは増すことでしょう。

 それではわたしたちの人生に必要な道しるべとは何でしょうか。聖書はそれを「あなたの御言葉」つまり神の言葉こそが道しるべである、わたしの歩みを照らす灯であると語ります。聖書には神の言葉を道しるべに歩んだ多くの人たちのことが記されていますが、その一人アブラハムに思いを向けましょう。

 創世記12章によれば、彼はあるとき「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」との神の御声を聞き、住み慣れた場所をあとにして旅立ちました。まさに神の言葉だけを頼りに新たに歩み始めたのです。彼が75歳のときでした。ユーフラテス川のはるか上流にあるハランという場所からカナンと呼ばれる約束の地までは直線距離にして600キロほどの道のりがあります。おそらく実際の距離は千キロを超えていたでしょう。一日に20キロ進んだとしても50日前後かかる計算になります。しかも妻のサライ、甥のロトそして多くの家畜を連れての旅です。困難を極めたことでしょう。自分の経験や勘を頼りにするだけでは続かなかったのではないでしょうか。このことに触れて新約聖書のヘブライ人への手紙は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)「アブラハムは…行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11:8)と述べています。

 信仰の人アブラハムは神の約束の御言葉に信頼し、ひたすら旅を続けました。また彼は、約束の地に住むようになってからもこの姿勢を変えることはありませんでした。彼に向けられた最大の試練は百歳にして与えられた息子イサクを焼き尽くす献げものとしてささげなさいと神に命じられたことだったと思います。しかしこの過酷な試練にあっても、彼は神への信頼を貫きます。もちろん人間的には心の葛藤があったに違いありません。しかしそれ以上に彼の心の中にあった思いは、御言葉によってわたしをこの旅路へと導き入れてくださった方は、どのような状況にあっても最善の道を備えてくださるに違いないという確かな信頼でした。果たして神はイサクに代わる献げものを、すなわち一匹の雄羊を備えてくださったのです。わたしたちもこの信頼に生きようではありませんか。 UP
 
2007年8月
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)
 ぶどうの木は聖書の人々にとって大変親しみのある木でした。ですから旧約 聖書にも「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし」(ゼカリヤ8章12節)というように出てきます。

 しかしイエスがこのぶどうの木のことを話されたとき、人々は驚いたことでしょう。「あなたがたはぶどうの木である」とおっしゃったのではなく、「わたしはぶどうの木である」そして「あなたがたはその枝である」と言われたからです。「枝」がつながるのは「幹」ですから、厳密に言えば「わたしはぶどうの幹、あなたがたはその枝である」と言われたことになります。

 木は幹と枝から成り立っていますが、幹と枝の関係は対等ではなく幹あっての枝ということになるでしょう。「幹」という言葉は中心とか主要部分を意味します。幹はしっかりと根を張り、枝を生じさせ、これを支えます。ですから生じた枝は幹にしっかりつながっていなければなりません。イエスは「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とおっしゃいました。

 それでは枝が幹につながっているとはどういうことなのでしょうか。それは枝であるわたしたちが幹であるイエスその方を生きることの中心に迎え入れ、深い信頼を傾けていくことにほかなりません。わたしたちは生来自己過信に陥りやすいという傾向を持っています。しかし自己過信がもたらすものは何でしょうか。幹を離れた枝がどれほど自分を誇ったとしても、やがていのちを失い実を結ぶことはできないでしょう。

 イエスは「わたしは道であり、真理であり、いのちである。」(ヨハネ14章6節)と言われました。イエス・キリストこそ、わたしたちが深い信頼を傾けて歩むことができる道であり、真理の光であり、いのちのみ言葉にほかなりません。この方にしっかりつながり、この方に心から聴き従うわたしたちでありたいものです。   UP
 
2007年7月
「初めに、神は天地を創造された」 (創世記1章1節) 
「初めに、神は天地を創造された」これは聖書の冒頭の言葉です。天も地もこの世界のものはすべて神のご意志によって造られたのだということです。神のご意志がなければ何一つ存在することはできませんでした。

 わたしたちは今日この世界の成り立ちについて科学の立場から、かなり説得力のある説明を聞くことができます。たとえば宇宙のはじまりにビックバンがあったという説明です。ところが興味深いことに聖書も「神は言われた、『光あれ。』こうして、光があった。」(1章3節)というように最初の創造の業を、あたかもビックバンを思わせるように物語っています。

 しかし、ここで聖書が語っているのは科学的な説明ではありません。確かに冒頭の部分が書かれた時代の最新の知識が踏まえられてはいるのですが、語られていることの中心は、やはり神のご意志であると言わなければなりません。ですからここで大切なことは、なぜ神はすべてのものに先立って「光」を創造されたのかということです。

 その理由は、この「光」という言葉にこめられている特別な意味にあります。 神が「光あれ」と言われるまで、闇があたりを覆っていました。またそこではすべてのものが混沌としていて、目的を持って存在していると言えるものは一つとしてありませんでした。この闇と混沌に向かって、神は「光あれ!」と言われたのです。それは神の救いのご意志の宣言でした。ヨハネによる福音書はこの光こそイエス・キリストであり、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(1章9節)と証言しています。

 わたしたちはどんなに闇が深くても、必ず光の朝がやってくることを知っています。そうです。その光のもとで、大空も地も海も、草木も太陽も月も星も、またあらゆる種類の生き物も造られたのです。そして最後に人間が造られました。「神は御自分にかたどって人を創造された」(27節)と言われています。「かたどって」とは「神と向き合う関係に」ということです。人間だけが神のご意志を心に響かせることができます。わたしは神から愛されている存在なのだと知ることができるのです。生きる意味や目的もそこから見えてきます。まさに「光あれ!」です。わたしたちもこの光に向かって心の目を開こうではありませんか。
UP 
2007年6月
「成長させてくださったのは神です」 (コリントの信徒への手紙一 3章6節) 
 「成長させてくださったのは神です」このみ言葉はわたしたちに、人が成長するとはどういうことなのかを問いかけています。伝道者パウロがこの言葉を記したのはコリント教会に宛てた手紙です。この教会は最初パウロの働きによってたてられ、それをアポロ次いでペトロという伝道者が引き継ぎました。

 ところがこの教会の中に誰が中心的な指導者であるのかをめぐって分派が生じ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはペトロにつく」というような有様になってしまったのです。ですからパウロはこの手紙を書き送って何が大切かを伝えようとしました。「わたしパウロがまず神の言葉の種をまき、アポロとペトロがそこに水を注いだことは確かです。しかしまかれた種が根を張り、芽を出して成長して実を結ぶことができたのは誰のおかげですか。成長させてくださったのは人ではなく、神ではありませんか!」と。

 コリント教会はいつの間にか人の力を過信し競い合うような教会になってしまっていました。「しかしそれでは成長することができませんよ。何がわたしたちを成長させ、何が成長を妨げるのかよく考えなさい!」パウロはそう言いたかったのではないでしょうか。

 そこで思い出されるのがマルコによる福音書4章1〜9節にある「種まきのたとえ」です。ある種は道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまいました。別の種は石だらけのところに落ち、芽は出しましたが日が昇ると枯れてしまいました。また別の種は茨の中に落ち、伸びはしましたが茨にふさがれて実を結ぶことはできませんでした。しかしよい土地に落ちた種は成長して実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなりました。

 ここでわたしたちはよく考える必要があると思います。たとえば、子どもの成長を願わない親はいないはずなのに、現実には成長が妨げられるという場合があるのではないでしょうか。成長を願うあまり、もしかして道ばたや石地や茨の中を選んだりはしていないか、よくよく考えてみましょう。

 今聖書のみ言葉は「成長させてくださったのは神です」と語りかけています。どんな種も成長の可能性を秘めていますが、成長して実を結ぶためには、そこによい土地がなければなりません。つまり神の言葉を聴く柔らか心、素直な耳が必要なのです。人は柔らかな心で自分に向けられた神の愛の深さを知ったとき、本来の成長がはじまります。そして目を見張るような豊かな実を結ぶに違いありません。成長させてくださるのは神なのです。UP
  
2007年5月
「わたしは良い羊飼いである」 (ヨハネによる福音書10章11節) 
 聖書に出てくる動物の中で最も親しまれているのは羊でしょう。羊を飼う羊飼いも同様です。旧約聖書ではダビデ王が少年の頃羊飼いだったことが知られていますし、新約聖書ではクリスマス物語の中に必ず出てくる羊飼いのことが思い出されます。聖書の人々にとって羊や羊飼いは身近な存在でした。

 このため聖書の人々は神と自分たちの関係を、羊飼いと羊の関係になぞらえて言いあらわしたのです。たとえば旧約聖書の詩編23編1節では「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と歌われています。主とは神の呼び名です。これは神が羊飼いのようにわたしを守ってくださるので、どんなことがあっても失われることがないという神への信頼の歌です。また詩編100編では「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ(3節)」と歌われています。

 さてイエスさまはご自分のことを「わたしは良い羊飼いである」と言われました。これを聴いた人々はすぐに旧約聖書の言葉を思い起こしたに違いありません。自分たちはイエスという良い羊飼いに守られ導かれている羊なのだということがよく分かったはずです。
 羊という動物はおとなしく、素直で、従順であると言われます。しかしその反面、愚かで、弱く、迷いやすい性質を持っています。もし群れを離れて迷ってしまったら自分で戻ることはできません。ですから羊飼いに守られているということがどうしても必要です。良い羊飼いは一匹一匹の羊の性格を知っていて、その特徴をとらえた名前で呼んでいたということです。また羊たちも自分たちの羊飼いの声を聞き分けることができました。別の人が声を出してもついていきません。

 ただ、羊飼いがどれほど注意していても、羊が迷い出たり狼が襲ってきたりすることがあります。しかし羊たちのことを思う良い羊飼いは、羊がいなくなればもちろん探しに出かけます。どんなに遠く危険なところでもあきらめたりしないで見つけ出すのです。また狼がやってくると恐れず向かっていき、命をかけてでも羊を守ります。「よい羊飼いは羊のために命を捨てる(10章11節)」と語られている通りです。わたしたちも十字架の恵みをもってわたしたちを守り導いてくださるイエスさまに従う羊たちでありたいものです。
UP 
  2007年4月
「神は愛です」 (ヨハネの手紙一4章16節)
 「愛する」という言葉をわたしたちは普段どんなふうに使っているでしょうか。人を愛する、家族を愛する、友人を愛する、平和を愛する…など、いくつもあることでしょう。ところが、よく考えてみますとこの言葉はなかなか重い言葉であることが分かると思います。

 最近、わが子に対する虐待や殺人といった、ふつうでは考えられないような事件が伝えられています。わが子を最初から憎いと思う親はいないはずです。どんな事情があるとしても、自分の子に手をかけて命を奪うなどということはできないはずだとわたしたちは思います。しかし、現実にそのような悲惨な事件が続いているのです。

 なぜ、人間の愛は行き詰まったり、憎しみに変わったり、偏ってみたりするのでしょうか。それはきっと人間が、本当は弱くて壊れやすい存在だからであるとわたしは思います。最初は問題がないように見えていても、ふとしたことがきっかけで、弱さが顔を出してくる、無意識のうちに壊れそうな自分を守ろうとして攻撃的になる、というふうにです。

 このように、わたしたちの中から出てくる愛は、移り変わりやすく、限界と危うさを常に抱え持っています。ですからわたしたちは、神さまの変わることのない愛に思いを向けなければなりません。ヨハネによる福音書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3章16節)」と語っています。神さまの愛は、独り子であるイエスその方を与え尽くしてくださるほどの十字架の愛なのです。わたしたちの愛は、この神さまの愛によって支えられ深められることがどうしても必要なのですね。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(コリントの信徒への手紙一13章7節)」愛がここから生み出されます。わたしたちもこの愛に導かれたいものです。  UP
 
  2007年3月
「今は主に結ばれて、光となっています。 光の子として歩みなさい。」 (エフェソの信徒への手紙5章8節)
 少しずつ日が長くなってきて、光を感じる季節になってきました。太陽の光は暖かさをも持ってきてくれます。庭の花や木々は芽吹きの時を待っていることでしょう。

 ちょうどそのように、神の光はわたしたちに生きることの喜びをもたらしてくれます。与えられているエフェソの信徒への手紙5章8節は「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」と語っています。

 それでは「主に結ばれて、光となっています」とはどういうことでしょうか。14節は光によって「明らかにされるものはみな、光となるのです」また「キリストはあなたを照らされる」と言われています。ヨハネ福音書1章9節にも「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とあります。つまりわたしたちはキリストという真実な光に照らされることによって光となるのです。

 「光となっています」と言われていて、「光になりなさい」とか「光になるでしょう」とは言われていないことに注意しましょう。マタイ福音書5章の山上の説教でも主イエスは「あなたがたは世の光である(14節)」と言われました。やはり「光であるように」とか「光になれ」とは言われなかったのです。

 わたしたちはつい自分が輝くのは、自分の熱意や努力によると思いがちです。それは必ずしも間違いではありません。しかしここで言われている輝きとはわたしたちの持ち前の価値によらずに輝く光にほかなりません。

 もう一度14節の「キリストはあなたを照らされる」に耳を傾けましょう。キリストはこの世を覆っている罪と死の闇を、この強固な殻を突き破って、真実な光を輝かせてくださいました。暴力的な力によってではありません。ご自身が身を低くして十字架の死を負われ、死に勝利されることによって、その愛の深さ、強さによって輝かせてくださったのです。ここに確かな恵みがあります。

 この恵みの光はすでにわたしたちにも届けられました。今わたしたちの内に輝いているし、これからも輝きを失うことはありません。この光は暖かく、いのちに満ちています。太陽の光が、花や木々の芽吹きをうながすように、キリストの光はわたしたちの中に暖かな心を芽生えさせ、その暖かさは周りの人たちにも伝わっていくことでしょう。光を受けた人は光を求めるのです。「光の子として歩みなさい」とはその意味で語られています。これからもずっと光の子として歩み続けましょう。   UP
 
2007年2月
「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」    (ヨシュア記1章9節) 
  このみ言葉はモーセの後継者ヨシュアという人に神が与えられた励ましの言葉です。モーセはイスラエルの民の出エジプトを果たし、40年にも及ぶ困難な荒れ野の旅を経て彼らを約束の地まで導いた偉大な指導者でした。ヨルダン川を渡ればそこはもう約束の地カナンです。しかしモーセ自身は約束の地を踏むことを許されず、代わってヨシュアが民を率いていくことになりました。

 ヨシュアにとっては大変な重圧だったと思われます。彼はモーセがしてきたことをずっと見てきました。しかし見てきたことと、実際にそのつとめに就くこととは同じではありません。どれほどの恐れや不安の中に置かれたことでしょうか。困難な旅はこれからも続くのです。自分はその任に耐えられるだろうか、その思いが強かったに違いありません。彼は自分の力の限界を思わないではいられませんでした。実はかつてモーセもそうでした。出エジプト記3章11節を見るとモーセは神にこう言っています。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と。「そんなことわたしにできるはずないではありませんか」という彼の本音が伝わってくる言葉です。

  しかしこの時神はモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる。」と約束されたのです。「必ず」という言葉が心に残ります。神はモーセの恐れや不安を分かっておられました。ですから「あなたは独りではないのだ。どんなことが待ち受けているとしてもわたしが必ずあなたに付いている」と言われたのです。彼を支え続けたのはこのみ言葉でした。

 そして今、それと同じ言葉がヨシュアにも与えられます。「あなたがどこに行っても、わたしは共にいる!」と彼は聴くことができたのです。どれほど心強かったことでしょうか。ヨシュアは大いに勇気づけられたに違いありません。実際彼はこの地で生涯の終わりを迎えるときまで、昼も夜もこのみ言葉によって励まされ、与えられた使命を果たし終えることが出来ました(ヨシュア記24章)。わたしたちもこれに続きたいものです。  UP 

 
 

日本キリスト教会札幌琴似教会

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牧師 久野真一郎

伝道開始 1930年  教会創立 1949年7月24日