聖書からのメッセージ

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「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」      (ルカによる福音書2章11節)
  ルカによる福音書は最初のクリスマスを次のように記しています。ユダヤのベツレヘム近郊で、羊飼いたちが羊の群れの番をしていました。彼らは大変貧しい人たちでしたが、ある夜のこと、突然現れた天使が救い主の誕生を告げたのです。それは 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせでした。この知らせが権力の座にある人たちにではなく、権力とは無縁の羊飼いたちにもたらされたことに、わたしたちは驚かされます。ルカ福音書は、異邦人を念頭に置いて書かれました。当時ユダヤの人々と異邦人との間には、超え難い壁があると信じられていましたが、ルカはこの知らせが、身分や民族など、あらゆる隔ての壁を超えて届けられることを願いつつ書き記したに違いありません。羊飼いたちは飼い葉桶に眠る無垢な幼子と出会い、かつてない喜びを抱いて帰って行きました。

 一方マタイによる福音書が記している博士たちは、ベツレヘムから東に一千キロほども離れたところの異邦人です。しかし占星術師であった彼らにも、輝く星によって喜びの知らせが届けられました。そして彼らは幼子を拝み、この上ない献げ物をした最初の人たちとなったのです

。  このように二つの福音書は互いに補い合うようにして、クリスマスのメッセージを伝えています。羊飼いたちだけでなく、博士たちも、そしてわたしたちも、置かれている境遇や立場の違いを超えて、この喜びの知らせを受け取ることができるのです。わたしたちの揺るぎない希望がここにあります。
  (札幌琴似教会牧師 久野真一郎)
 
2017年  11月  ヨハネによる福音書15:12 
10月 マタイによる福音書5:8
9月  コリントの信徒への手紙一 3:6
8月 マタイによる福音書16:13-20 
7月  ルカによる福音書10章37節 
6月  ヨハネによる福音書15章5節 
5月  ヨハネによる福音書15章4節 
4月  ヨハネの手紙一4章16節 
2.3月  ヨハネによる福音書6章35節 
1月 マタイによる福音書7章7節
2016年  12月  ルカによる福音書2章11節 
11月  テサロニケの信徒への手紙T5:16〜18
10月  ヨハネによる福音書6:48 
9月  詩編23:1 
8月  ヘブライ人への手紙11:13〜16 
7月  出エジプト記3:12
6月  創世記6:9 
5月  創世記1:1 
4月 ルカによる福音書24:13〜35 
2.3月  詩編119:105
1月 マルコによる福音書13:15
 2015年 12月  ルカによる福音書2:11
11月 ヨハネによる福音書15:12 
10月  マタイによる福音書5.8
9月  コリントの信徒への手紙一 3:6
8月  マルコによる福音書3:13-19 
7月  ルカによる福音書10:37
6月 ヨハネによる福音書15:5 
5月  ヨハネによる福音書10:11
4月  マルコによる福音書16:1〜8 
3月  マルコによる福音書1:40〜45
2月  マタイによる福音書7:7〜8 
1月 ルカによる福音書2:8〜12 
2014年  12月  ルカによる福音書2:11 
11月  テサロニケの信徒への手紙(一)5:16、18
10月  ヨハネによる福音書6:48
9月  詩篇23:1 
8月  マタイによる福音書11:29
7月  出エジプト記3:12 
6月  創世記6:9
5月  創世記1:1 
4月  ヨハネの手紙一4:16
3月  ルカによる福音書19:1〜10 
2月  詩編119:105 
1月 ヨハネによる福音書1:9〜18       
2013年  12月 ルカによる福音書2:11
11月  ヨハネによる福音書15:12 
10月 マタイによる福音書5:8 
9月  コリントの信徒への手紙一 3:6 
8月 ルカによる福音書19:9 
7月  ルカによる福音書10:37 
6月  ヨハネによる福音書15:5 
5月  ヨハネによる福音書10:11 
4月  ルカによる福音書6:27〜36 
3月  ルカによる福音書15:1〜3、11〜32 
2月  マタイによる福音書7:7〜8 
1月  マタイによる福音書18:21〜35 
2012年  12月  ルカによる福音書2:1〜20 
11月  テサロニケの信徒への手紙一5:16〜18 
10月  ヨハネによる福音書6:48 
9月  詩編23:1 
8月  ヨハネによる福音書6:51〜58 
7月  出エジプト記3:12  
6月  創世記6:9
5月  創世記1:1 
4月  ヨハネによる福音書20:24〜29
3月  マタイによる福音書7:7 
2月   詩編119:105 
1月  マルコによる福音書1:14〜20
2011年  12月  ルカによる福音書2:11 
11月  ヨハネによる福音書12:12 
10月 ヨハネによる福音書14 :16
9月  マタイによる福音書16:13〜20 
8月  マタイによる福音書13:24〜30 36〜40 
7月  ルカによる福音書10:37 
6月  ヨハネによる福音書15:5 
5月  ヨハネによる福音書20:24〜31 
4月  ヨハネによる福音書20:14〜15
3月 ルカによる福音書10:25〜37 
2月  マタイによる福音書7:7〜8 
1月  マタイによる福音書3:13〜17 

2009年〜2010年はこちら

2007年〜2008年はこちら
 
2017年11月 
  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」                  (ヨハネによる福音書15章12節)  

   今わたしたちの時代は、互いに愛し合うことを切実に必要としているのではないでしょうか。それなのに、なぜ愛が届かないのでしょうか。誰も人を愛する思いを持っているはずですが、現実には隔ての壁が立ち塞がり、また愛が憎しみに変わることも稀ではありません。

 この壁を取り除くことは可能でしょうか。イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。わたしたちの愛が先にあるのではなく、イエスさまの愛が先にあることが大切なのです。

 ルカ福音書10章25〜37節に記されている「よきサマリア人のたとえ」を聴きましょう。一人の瀕死の傷を負ったユダヤ人の旅人の かたわ らを祭司とレビ人、そしてサマリア人が通りかかりました。この内ユダヤ人でありエルサレムの神殿を働きの場としている祭司とレビ人は、その人に手をかけることなく通り過ぎてしまいます。しかし、その後通りかかったサマリア人は、この旅人に対してためらうことなく介護の労を執りました。当時サマリア人はユダヤ人から さげす まれ、嫌われていたにもかかわらずです。

 このサマリア人とは誰のことでしょうか。イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように」と言われました。この方は、罪ある者のために身をささげて、十字架の死を遂げてくださいました。ここに愛があります。この愛こそ隔ての壁を取り除き、すべてを包む愛にほかなりません。そしてイエスさまがただ一つ与えられた掟が「互いに愛し合いなさい」です。この愛のおきて掟に生きるわたしたちでありたいと思います。

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2017年10月 
 「心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る。」  
                            (マタイによる福音書5章8節)

  イエスさまは山上の説教(マタイによる福音書5〜7章)の中で「幸いだ。心の清い人たちは。なぜならその人たちは神を見るから。」と言われました。心が清いということは、それほど大きな恵みだと言われたのです。

 それでは「心が清い」とは、何を意味するのでしょうか。ここで「清い」と訳されている言葉のもともとの意味は「純粋な」「二心のない」です。けれども、誰であれ心の奥の奥まで何の混じりけもないということがあるでしょうか。誰でも心の奥の奥には自分を誇ったり、人のことを悪く思ったり、憎んだりする思いが潜んでいるように思います。ですからもしどこまでも混じりけのない心があるとすれば、それはただ神さまの恵みによるほかないに違いありません。

 詩編24篇はその3節と6節で次のように詠っています。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。…それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」と。

 そうです。「心が清い人」とは、御子キリストを与えるほどにわたしたちを愛してくださった、神さまの限りなく深い愛と赦しの御心に打ち砕かれ、どこまでも、ただ神さまの御手に自分をささげる人にほかなりません。御子はまさに神さまの御心に対する従順を貫かれた方でした。フィリピの信徒への手紙が、「キリストは…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(2:8)」と告げているとおりです。この方に倣う者は「神を見る」と約束されています。この希望に生きるわたしたちでありたいと思います。  
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2017年9月 
 「成長させてくださったのは神です」
                      (コリントの信徒への手紙一 3章6節)

  収穫の喜びの季節が近づいています。聖書の大地であるパレスチナでも変化に富んだ地形の関係もあって小麦やぶどうなど多くの種類の産物が穫れます。このため聖書には作物の成長や収穫に触れた言葉が多く出てくるのですが、イエスさまが話された「種まきのたとえ」(マルコによる福音書4章1〜9節)もその一つです。ここで種とは大麦や小麦の種だと考えられます。

 蒔かれた種のうち、ある種は道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまいました。別の種は石だらけのところに落ち、芽は出しましたが日が昇ると枯れてしまいます。また別の種は茨の中に落ち、伸びはしましたが茨にふさがれて実を結ぶことはできませんでした。しかしよい土地に落ちた種は成長して実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなったのです。

 けれどもこのたとえは、種が成長するかしないかは、落ちた場所で決まるという運命論を語っているのではありません。ここで「種」という言葉で語られているのは、一人一人の心の畑に蒔かれた「神の言葉」です。せっかく神の言葉の種が蒔かれても、色々なものに妨げられて成長できないということにならないために、何よりも大切なことは、心の柔らかさ、つまり神の言葉を喜んで受け入れる素直さです。ですから、わたしたちによい心と耳をいつも与えてください、そして成長と豊かな実りを与えてくださいと祈りをささげようではありませんか。
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2017年8月 
『あなたはメシア、生ける神の子です』     マタイによる福音書16:13-20

   マタイによる福音書16章13節以下には、わたしたちの確かな土台としての信仰が言いあらわされています。主イエスは迫り来るご自身の十字架の時を意識しつつ、弟子たちにこの信仰の核心に触れてお尋ねになりました。場所はフィリポ・カイサリア地方です。ガリラヤ湖から北東約40キロのところにこの名で呼ばれる町があります。もともと豊穣をもたらす神であるバアル礼拝が盛んなところでした。紀元前20年、ローマ皇帝アウグストゥスはこの地をヘロデ大王に与え、彼はここに皇帝のための神殿を建てています。そしてさらにその子ヘロデ・フィリポはこの町を拡張し、皇帝に敬意を表してカイサリアと名付けました。

 このようにバアル礼拝と皇帝を神とする政治宗教が混在するようなところで、主イエスは弟子たちの信仰を問われたのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」と。この問いは弟子たちだけではなく、わたしたち一人一人にも向けられています。

 シモン・ペトロはこう答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。今ペトロはこの方を「生ける方」と言いあらわすのです。この方はわたしたちの罪のためにひとたび十字架に死なれるけれども、死に勝利する生ける方であるとの信仰の告白がここにあります。

 そうです。この告白こそがわたしたちの信仰の核心であり、わたしたちの 人生の揺るがない土台にほかなりません。ペトロその人はこの後のところでも明らかになりますように決して完全な人ではなく、熱しやすいが冷めやすく壊れやすい存在に過ぎません。しかし彼は、自分自身の中にではなく、主イエスその方の中に揺るがないものをとらえたのです。この方こそ「生ける神の子」との信仰に導かれ、確固とした人生の立ちどころを得ました。詩編46編2節はこう言いあらわしています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの(とりで)。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と。わたしたちもここにこそ立ちたいものです。
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2017年7月 
 「行って、あなたも同じようにしなさい」   
                 (ルカによる福音書10章37節)

 わたしたちにとって、「隣人」とは誰のことでしょうか。

 あるとき主イエスは、自分は「隣人を愛しなさい」と書かれている律法の掟を守っていると思っている律法の専門家に対して一つのたとえを話されました。それが「善いサマリア人のたとえ」です(ルカ10章30〜35節)。

 一人のユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて瀕死の状態で倒れていました。しかしそばを通りかかった同じユダヤ人である祭司とレビ人は通り過ぎて行きます。ところがそこを通りかかった一人のサマリア人が、その人に近づき、考え得る限りの介護をしたのです。このことは、当時ユダヤの人々の常識からは考えられないことでした。なぜならユダヤの人々はサマリア人のことを、異なる血の混じった不浄な人たちとして交わろうとしなかったからです。しかしこのサマリア人が瀕死の傷を負っている旅人に対してなした全力の介護に、何のためらいもありませんでした。つまり彼はその人の隣人となったのです。

 主イエスはこのように話された後、律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい(37節)」と言われました。ほどなく十字架の上でご自身を与え尽くされ、あらゆる隔ての壁を打ち破られる方がそのように言われたのです。サマリア人が示した愛の業は、主イエスのこの十字架の愛を指し示しています。「行って、あなたも同じようにしなさい!」あのサマリア人に倣うわたしたちでありたいものです。
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2017年6月 
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」    
                          (ヨハネによる福音書15章5節)

  主イエスは弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。穏やかな日々が続いているときに言われたのではありません。そうではなく、十字架にかけられるときが目前に迫る中で言われたのです。  主イエスは弟子たちに十字架のときが近いことを告げられ、またペトロに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない…(13章36節)」と告げられました。この言葉を聞いた弟子たちは激しく動揺し、心を騒がせます。このままでは主イエスと自分たちとのつながりが切れてしまう、どうしたらよいのか?そのように彼らは思ったに違いありません。

 そのときです。主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい(14章1節)」と言われました。そして彼らとの結びつきが不変であることを、ご自身をぶどうの木になぞらえて、「あなたがたはその枝である(15章5節)と言われたのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている(4節)」とも言われました。

 ほどなく主イエスは十字架に死なれ、復活して天に昇っていかれます。十字架の死は決して敗北ではなく、十字架の死によって示された主の愛は限りなく深く不変であり、主に依り頼む者たちを包み、命を与えるのです。わたしたちがこの愛に生かされるとき、この方との結びつきはいよいよ強められ、何者もこれを妨げることはできません。わたしたちの希望がここにあります。
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2017年5月 
 『 わたしにつながっていなさい』   (ヨハネによる福音書15章4節)

聖書のみ言葉は、数千年にもわたって様々な状況の中で語り継がれ、また書き記されてきたにもかかわらず、不思議としか言いようのない一つの明確な方向性と中心を持っています。ヨハネによる福音書はそれを「わたしはぶどうの木」という御言葉によって示しています。つまり主イエスこそ聖書が指し示している中心であり、わたしたちがつながっているべきお方にほかなりません。

 主イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている(4節)」と言われました。しかし、この御言葉はわたしたちのいわゆる努力目標として語られているのではありません。そうではなく、すでにあなたがたは主イエス・キリストの枝なのだから(5節)、離れないように、しっかりつながっていなさいと言われたのです。主イエスはわたしたちに朽ちない命を与えるために、罪ある者のただ中に身を置き、わたしたちが負うべき十字架を負い抜いてくださいました。ですから主イエスにつながって生きるとは、この方の赦しの御声を聴き、この方が差し出してくださる命に与って生きることにほかなりません。

 そうです。主イエスはわたしたちが、この方との生命的なつながりの中でこれからも生き続け、豊かな実を結ぶことができるように、「わたしにつながっていなさい」と幾度も呼びかけてくださるのです。これに優る恵みがほかにあるでしょうか。この恵みに生きるわたしたちでありたいものです。
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2017年4月 
  「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)

   わたしたちは普段、「愛する」という言葉をどんなことに触れて語っているでしょうか。人を愛する、家族を愛する、友人を愛する、平和を愛する…など、何れも大切な事柄です。

 最近、わが子に対する虐待や殺人といった、ふつうでは考えられないような事件が起こっています。わが子を最初から憎いと思う親はいないはずです。どんな事情があるとしても、自分の子に手をかけて命を奪うなどということはできないはずだとわたしたちは思います。しかし現実にそのような悲惨な事件が続いているのです。

 なぜ、人間の愛は行き詰まったり、憎しみに変わったり、偏ってみたりするのでしょうか。それは人間の根底に弱くて壊れやすい部分があるからではないかと思われます。ふとしたことがきっかけで、自分の弱さが顔を出してくる、そして無意識のうちに壊れそうな自分を守ろうとして攻撃的になるということがあるのではないでしょうか。

 このように、わたしたちの中から出てくる愛は、移ろいやすく、限界と危うさを常に抱え持っています。ですからわたしたちは、神さまの変わることのない愛に思いを向けなければなりません。ヨハネによる福音書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3章16節)」と語っています。神の愛は、独り子であるイエスその方を与えてくださるほどの十字架の愛です。この愛こそがわたしたちの愛を支えます。ですから日々御言葉に聴き、わたしたちの愛がいのちを失ったものとならないよう、祈り求めようではありませんか。
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2017年2.3月 
 「わたしが命のパンである」    (ヨハネによる福音書6章35節)

 ヨハネによる福音書6章35節に、「イエスは言われた『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』」と記されています。主イエスはここで何を告げておられるのでしょうか。

 イエスのもとにやってきた多くの人たちは、イエスがなさった奇跡の力でもっと自分たちを豊かにしてほしいと願っていました。しかし、ここで聴かなければならない大切なみ言葉があります。それが「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」との御言葉です。

 人々は奇跡をなさった主イエスの本当のお姿にまだ気づいていません。彼らはイエスは凄い人だと思いましたが、多くの人たちは結局イエスから離れてしまい共に歩まなくなってしまいました。彼らが生きることの軸足をイエスその方の中に置こうとしなかったからではないでしょうか。主イエスは「わたしが命のパンである」と言われます。そして「わたしのもとに来なさい」「わたしを信じなさい」と呼びかけてくださり、ご自身に軸足を置くことを強く促されるのです。肉のパンはかみ砕いて呑み込まなければ命の糧となりません。そのようにわたしたちも、命のパンであるイエスその方を生の中心に受け入れ、主の命の霊に充ち満ちた歩みを重ねて参りましょう。   
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2017年1月 
「求めなさい。そうすれば、与えられる」   (マタイによる福音書7章7節)

  主イエスは山上の説教の終わり近くで「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。マタイによる福音書7章7節の御言葉です。

 ここで主イエスは、わたしたちのどのような願いであれ、求めさえすれば、与えられる、願い通りにかなえられる、とおっしゃったのでしょうか。いいえ、そのような意味でおっしゃったのではありません。

 そうではなく、わたしたちは生きることに疲れ果て、ああもう望みがないと思ってしまうようなときにあっても、わたしたちの助けを求める声に、耳を傾け、聴き続けてくださる方がおられるのだということなのです。

 またもう一つの意味があります。それは続く7章13節、14節のところで、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる道は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われていることです。入りやすそうに見える門は、もしかしたら滅びに至る門かも知れません。

 ですから、闇雲に求めるのではなく、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10章9節)と言ってくださる方に向けて求めることが大切です。そうです。その門は、一見狭く見えるかも知れませんが、まさに命に至る救いの門にほかなりません。ですからどうぞ、あなたも、この門をぜひ叩いてください。求め続けてください。「そうすれば、与えられる」と主イエスは約束してくださっています。あなたが求め始めることを待っていてくださるのです。           
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2016年12月 
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」  (ルカによる福音書2章11節)

 聖書は救い主誕生の知らせを受け取った人たちとして、博士たちの物語(マタイによる福音書)と羊飼いたちの物語(ルカによる福音書)を記しています。

 羊飼いたちは、イエスが生まれたユダヤのベツレヘム近郊の荒れ野で羊の番をしていた貧しい人たちです。彼らは天使たちが救い主の誕生を告げたとき、すぐに駆けつけ、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。一方、ベツレヘムから東に一千キロ以上も離れたところで星の動きを調べていた占星術の博士たちにも、神さまは不思議に輝く星によって、喜びの知らせを届けてくださいました。

 注目させられることは、羊飼いたちも、博士たちも、神さまの恵みから遠い人たちだと思われていたということです。羊飼いたちは、貧しさと汚れた荒れ野を働きの場としているということによって、また博士たちは遠い国に住む外国人(異邦人)だということで、そう思われていました。

 しかし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」との喜びの知らせは、まず彼らに届けられたのです。二つの福音書は何れも、救い主誕生の知らせが、民族の壁を超え、様々な隔ての壁を超えて届けられることを願いつつ書き記されたに違いありません。羊飼いたちや博士たち、そしてわたしたちも、置かれている境遇や立場の違いを超えて、この喜びの知らせを受け取ることができるのです。わたしたちの希望がここにあります。             
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2016年11月 
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」
        テサロニケの信徒への手紙(一)5章16〜18節

  テサロニケの教会の人たちにこの手紙を書き送ったのは、パウロという伝道者です。彼ははじめキリストを信じる人たちを迫害していました。けれども、まだ三十代のころ、復活のキリストとの衝撃的な出会いによって、罪人(つみびと)の頭(かしら)のような自分にも注がれた十字架のキリストの愛の深さを知り、百八十度生き方を変えられて、その後の全生涯をキリストにささげたのです。その歩みは、人間的に見れば喜びよりも苦難のときの方が多かったと言えます。ところがその彼が、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と語りかけているのです。

 これは「喜びましょう」というような柔らかな言い方ではありません。実は彼はここで命令形を用いています。キリストの愛に捉えられるということは、それほど確かな恵みなのだ。だから「喜びなさい。祈りなさい。感謝しなさい」と彼は確信に満ちて語りかけているのです。

  親しくしている一人の兄弟が「神さま、感謝します」と、必ず祈りはじめることをわたしは知っています。キリストの十字架の愛と赦しがこの兄弟に満ちているのでなければ、どうしてこのように祈ることができるでしょうか。

 ほどなくキリストの降誕を待ち望む待降節を迎えます。神がわたしたちに届けてくださる喜びのおとずれを、共にかみしめたいものです。
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2016年10月 
  「わたしは命のパンである。」 (ヨハネ6:48)

   人が生きていくために必要なものは何でしょうか。わたしたちはすぐに命をつなぐ糧としての「パン」を考えると思います。そしてそのパンを得るためには、収入やそれを支える生活環境等が必要となります。その意味で、イエスが男の数だけで五千人もの人たちを、僅かな食べ物で養われたという出来事は、人々に非常に大きな衝撃を与えました。その衝撃の大きさは、この奇跡だけが四つの福音書すべてに記されていることからも分かります。

 ヨハネによる福音書によれば、イエスは一人の少年が差し出した大麦のパン五つと魚二匹を受け取られ、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。増やされたパンの量は計り知れず、残ったパン屑が十二の籠一杯になるほどであったと記されています。

 しかし、驚きはこれだけではありません。実はイエスはこの出来事に非常に大切なメッセージをこめておられるのです。それが、朽ちることのない、永遠の命に至る食べ物のことです。イエスは「わたしは命のパンである」と言われました。わたしたちはつい配られたパンやその量に目を奪われてしまいますが、大切なことは、朽ちることのない命を差し出してくださるイエスその方に、心の目を向けること、そしてこの方を信じて生き始めることにほかなりません。

  使徒パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)と述べています。わたしたちもこの信仰の望みに生きる者でありたいと思います。
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2016年8月 
 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(詩編23:1)

  いつの時代も、国の指導者の役割は重要です。その姿勢と一つ一つの判断が、国の命運を決することになるからです。ダビデはかつてのイスラエル王国の王でした。彼はしばしば理想の王と称えられますが、決して完璧な人だったわけではなく、重大な過ちを犯したこともあります。しかし彼は国の指導者として最も大切なものを持っていました。

 神への限りなく深い信頼がそれです。その姿勢は小さいときから生涯を閉じるまで変わることはありませんでした。ダビデがペリシテの戦士ゴリアトを倒したことはよく知られています。まだ少年であり、武器らしい武器も持たない彼が、身の丈3メートルもある大戦士ゴリアトを倒すことができたのも、神が共にいてくださることへのあつい信頼があったからでした。ダビデはこの戦士にこう言っています。「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。…主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない…」と。

 ダビデは王となってからも、自分の力に頼っておごり高ぶることなく、神の御手に依り頼む、謙虚な姿勢を崩すことはありませんでした。彼のこの姿勢が、国を正しく導いたのです。詩編23篇はそのダビデのうたです。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない(1節)」と彼はうたいました。どんなときでも、主の主、王の王である神の御手が届かないことは一度もなかったと、どこまでも深い神への信頼が言い表されています。この彼の生き方は、わたしたちの本来あるべき姿でもあるのではないでしょうか。  
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2016年9月 
 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ人への手紙11:13〜16)

  ヘブライ人への手紙は、世代を重ねる中で、信仰のよどみに陥りがちであった兄弟・姉妹たちに、もう一度、信仰の旅人としての自覚を呼び覚ますことを意図して書き記されました。13節以下には「旅」という言葉こそありませんが、神の約束された地に向かって旅立ち、終生信仰の旅人としての姿勢を崩すことがなかった族長たちの姿が示されています。

 アブラハムは「行き先を知らずに」旅立ちました。しかしそれは、目的地を持たずにという意味ではありません。肉の目でそれを見ることはできなかったけれども、彼は神の約束を信じ、信仰の目でそれを捉えたのです。 また「他国に宿るようにして約束の地に住み…幕屋に住みました」とあります。13節ではさらに「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」と云われています。「宿る、幕屋に住む、よそ者、仮住まい…」これはいずれも旅人の姿そのものです。

 さらに13節に「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とあります。ここで「抱いて」とは、「何々を通って」とか「何々にあって」という意味です。つまりアブラハム、イサク、ヤコブたちは約束の地にあっても、常に「天の故郷」(16節)を目指す旅人としての姿勢を崩さず、信仰という道を通って生き、信仰にあって死んだのです。

 遊牧の生活では、よどみは危険を意味します。行く先を見失ってしまうなら、生きていくことはできません。信仰の旅路も同じではないでしょうか。わたしたちはどこから出てきて、どこに向かおうとしているのか、そのことを絶えず御言葉から聴く姿勢が不可欠です。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:2)そうするのです。またそうであってこそわたしたちは、地にしっかり足を付けた生活を営むことができるでありましょう。
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2016年7月 
 「わたしは必ずあなたと共にいる」     (出エジプト記3章12節)

 モーセはホレブという山で神から、「わたしはあなたをファラオ(エジプトの王)のもとに遣わす。エジプトで苦しんでいるわたしの民イスラエルの人々を連れ出しなさい」との召しを受けました。しかし彼は、「わたしには荷が重すぎます」と答えます。自分にはとてもそのような力はない…と思ったからです。その頃、エジプトの支配は非常に強大でしたから無理もありません。

 そのとき、たじろぐモーセに対して言われた神の言葉が「わたしは必ずあなたと共にいる」でした。これは「どれほどの困難が襲いかかってくるとしても、あなたは一人ではない。わたしが共にいるのだ」との神の約束の言葉です。これほどの励ましがあるでしょうか。

 その後モーセはエジプトに向かいますが、予想されたとおり困難の連続でした。しかし、神が与えられた十の災いによって、ファラオはついにイスラエルの人々がエジプトを出て行くことを許したのです。ところが心変わりをしたファラオは、イスラエルの人々を連れ戻そうと追いかけてきます。行く手には海があり、彼らは追い詰められてしまいました。

 しかしそのとき、神の御声があり、モーセが杖を高く上げると、海が二つに分かれたので、人々は向こう岸まで渡ることが出来ました。葦の海の奇跡と言われています。「わたしは必ずあなたと共にいる」との神の約束は本当でした。イスラエルの人々はこうして救われ、その後も長く苦しい荒れ野の旅路でしたが、彼らは守られたのです。

 わたしたちもしばしば危機の中に置かれます。ですから、神のこの約束の御言葉に信頼し、ここに希望を定めたいものです。
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2016年6月 
 「ノアは神と共に歩んだ」(創世記6章9節)

  旧約聖書の最初の書である創世記6〜8章に、よく知られているノアの洪水の物語が記されています。「雨は四十日四十夜降り続き…洪水は四十日間地上を覆った…水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった」のです。このため箱舟に入ったノアの夫婦と三人の息子たち夫婦の八人、それに一つがいの動物たち以外は一掃されてしまいました。この極めて衝撃的な物語はわたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか。

 一つは人間の罪の現実です。それぞれの人たちが、それぞれのところで、自分たちの中に罪の破れがあることに気付かないまま、ひたすら繁栄を求めて生きています。そして雨が降り始めてから、ようやく自分たちが破滅に向かって生きてきたことに気付くのです。そのことにもっと早く気付くべきでした。しかしそのためには、ノアがそうであったように、神のみ声を聴く心備えがなければなりません。人間は神のみ声を聴くのでなければ、罪の現実に気付いて、生き方を正すことはできないからです。

 この物語が語っているもう一つのことは、箱舟に入って救われ、洪水後の新しい時代の先駆けとなったノアとその家族たちの生き方です。彼らは神のみ声を聴く心備えを持つ人たちでした。ですから、まだ雨も降ってこないのに箱舟を造ったのです。この彼らが身を託した箱舟は、わたしたちに大切なことを教えています。この箱舟は普通の舟とは違い、オールや帆のような装置を持っていません。つまり自ら進むことはできず、ただ水の上に浮かんでいるだけなのです。それはまさに神を信じ、全面的に神のみ手に委ねて生きる者たちの姿そのものではないでしょうか。「ノアは神と共に歩んだ」、わたしたちの希望もまたここにあります。
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2016年5月 
  「初めに、神は天地を創造された」      (創世記1章1節)

  かつて人類は地球上の資源が枯渇したり、地球を取り囲む環境が悪化して温暖化やそれに伴う異常気象が起こるというようなことは想像もしていませんでした。しかし今やわたしたちは、資源には限りがあり、このままでは温暖化が加速度的に進むことを知っています。節度ある資源の利用と自然環境の保全が切実な課題となってきています。

 これに伴い、実は聖書の読み方も変化してきました。創世記は、初めに神が天地を創造され、造られたすべてのものを、最後に造られた人間に支配させられたと記しています。聖書を読む人は長い間これを、人間は造られたものの頂点に立つのだからこれを意のままに用いてよいと、読み取ってきたのです。

 けれども、資源が枯渇し自然環境が悪化する中で、神の御心に望みを置く人たちは、もう一度聖書を読み直す必要に迫られました。その結果、造られたものすべてを支配せよと命じられた神のご意図は、意のままに何をしてもよいということではなく、造られたものを全て正しく管理するところにある…と気づいたのです。聖書は、神が創造された世界は「極めてよかった(31節)」と告げています。しかし神の御心を離れては、世界もわたしたちの祝福もありません。この世界がもう一度神の祝福へと立ち帰ることができるように、まずわたしたち自身が、神の御心を心から祈り求めたいと思います。
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2016年4月 
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められたしかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
  一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 
  (ルカによる福音書24:13〜35) 

 聖書は記された神の言葉です。そして神の言葉は語り告げられ、説き明かされることによって、わたしたちに、なくてならない一人の方を指し示し、この方との出会いへと聴く者を導き入れるのです。かつてない出会いがここにあります。この出会いは、わたしたちの心にともる灯火であり、それは輝き続け、もはや消えることはありません。

 さてルカ福音書24章13節以下を聴きましょう。この日二人の弟子が、エルサレムから11〜12キロ離れたエマオという村へ向かっていました。エルサレムとは言うまでもなく主イエス・キリストの十字架と復活の出来事があったところであり、神の救いの業が成し遂げられた場所にほかなりません。しかし今この二人にとって主の十字架と復活の出来事は何の喜びにもつながっていませんでした。二人は言い知れない戸惑いと失意のあまり、この町にとどまっていることができず、この町に背を向け、彼らの出身地と目されるエマオへと戻る道を歩いていたのです。

 しかし復活の主はそのような二人に同伴し、丁寧な対話を重ねつつ、互いの信頼関係を築いた上で、彼らの眼を開いてくださいます。25〜27節に「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」と記されています。

 主イエスは、時に厳しく、しかし丁寧に、あつい思いを秘めながら、聖書のみ言葉を説き明かしてくださいました。エルサレムで起こったことは、聖書と一致している、聖書が証言するところと全く一つであると説き明かされたのです。すなわち十字架と復活の出来事は、神のみ心である、神のご意思なのだと告げられたのです。

 ここでわたしたちは、神の言葉を聴くことの大事さを教えられるのではないでしょうか。あの二人が最初そうであったように、聖書の言葉は知っていても、本当はそこで何が語られているのかを、わたしの曇った眼、遮られた心は聴き取ることができません。主の導きによって、み言葉の火がわたしたちの心の中に灯り、赤々と燃えはじめる、その「燃える心」がなければなりません。「そうか、この方は十字架に付けられたからメシヤでないのではなく、聖書が告げているとおり、十字架に付けられたからこそメシヤなのだ、そうだ、そうなのだ…」と。

 そうです。あの二人はいみじくも言っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか…」と。主よ、わたしたちにも燃える心をお与えください。
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2016年2月 
 「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」 (詩編119編105節)  

   わたしたちは、先行きがなかなか見えない不安な時代を生きています。将来を予測する情報がこれほど飛び交っている時代であるにもかかわらずです。

 しかしこのような状況は、果たして今の時代だけのことでしょうか。遠い昔の人たちもまた情報を伝えるメディアがごく限られている中で、わたしたちの想像を超えた不安や怖れを抱いていたに違いありません。旧約聖書の時代の人々も同様でした。詩編119篇を歌った詩人もまた言葉では表せないほどの不安や怖れの中で、生きることの全てを託すことができる揺るぎない拠り所を切実に求めていました。

 ではこの詩人にとって真に依り頼むべきものとは何であったのでしょうか。それは神の御言葉にありました。119篇105節のところでこの人は次のように言い表しています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」と。短い言葉の中にこの詩人の思いのすべてが凝縮しています。

 すなわち、「神よ、わたしの人生はよいときばかりでなく、最悪と思われるような困難や苦しみを味わうときもありました。けれどもあなたはどのようなときにあってもわたしを見離すことなく、御言葉によってわたしを慰め、生きる希望を与えてくださいました。神よ、あなたの御言葉こそ、これからの歩みにおいてもわたしが生きていく道を照らす真実な光です…」との思いです。何と深い信頼の言葉でしょうか。  2016年度の歩みが始まりました。この年、御言葉の光に照らされつつ、共々に歩んで参りましょう。
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2016年1月 
   「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。そこで、12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(マルコによる福音書13〜15節)

 教会とは主の招集によって集められ、また派遣されていくところです。13節は「イエスが…呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた」と記しています。ここで招集された12人は教会の原型であり、礼拝者の姿に他なりません。そしてわたしたちも「彼らを自分のそばに置くため」(14節)と言われるように、主の日に招集者の許に集められます。礼拝(レイトゥルギア)は〈民の業〉という意味ですが、一週間を生きたわたしたちはここにおいて、御言葉と聖餐に与り、恵みの袋を一杯にして、その溢れる恵みを携えてこの世へと派遣されるのです。

 ここで14〜15節「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせ…」に注目しましょう。派遣には二つの働きがあるということが分かります。すなわち〈宣教〉と〈悪霊を追い出す〉ことです。宣教の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)に凝縮されます。しかしこの宣教は単なる言葉の伝達ではありません。神の国は出来事です。主イエスはこう言われます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と。ですから悪霊を追い出す業は、神の国の到来を告げるしるしに他なりません。

  新しい年、この招集と派遣という神の国の力強い営みに、いよいよ心をこめて仕えて参りましょう。
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2015年12月 
   「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」      (ルカによる福音書2章11節)

新約聖書には、救い主誕生の知らせを受け取った人たちとして、マタイによる福音書は博士たちの物語を、ルカによる福音書は羊飼いたちの物語を記しています。

 羊飼いたちは、イエスが生まれたユダヤのベツレヘム近郊の荒れ野で羊の番をしていた貧しい人たちです。彼らは天使たちが救い主の誕生を告げたとき、すぐに駆けつけ、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。一方博士たちはベツレヘムから東に一千キロほども離れたところの異邦人です。しかし占星術師であった彼らにも、輝く星によって喜びの知らせが届けられました。このように二つの福音書は互いに補い合うようにして、クリスマスのメッセージを伝えています。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この喜びの知らせは、はじめにユダヤ人である羊飼いたちにもたらされました。しかしこれを伝えているルカ福音書は、異邦人を念頭に置いて書かれたことを忘れてはならないと思います。ルカは身近な貧しい人々に伝えられたこの知らせが、民族の壁を超え、様々な隔ての壁を超えて届けられることを願いつつ書き記したに違いありません。羊飼いたちだけでなく、博士たちも、そしてわたしたちも、置かれている境遇や立場の違いを超えて、この喜びの知らせを受け取ることができるのです。わたしたちの希望がここにあります。
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2015年11月 
  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
                             (ヨハネによる福音書15章12節)

 今わたしたちの時代は、憎しみの連鎖が広がっているように思います。誰も人を愛する思いを持っているはずですが、以前にも増して人と人との間に隔ての壁がつくられてしまっています。この壁をどうしたら取り除くことが出来るのか、その道を真剣に求めていかなければならないのではないでしょうか。

 主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。これは主がわたしたちに与えられた唯一の掟です。主イエスご自身、十字架を前にして愛する弟子たちの足を洗われました。洗足は主人に対して僕がする仕事ですが、主イエスはその僕の立場に身を置かれたのです。

 ルカ福音書10章25〜37節に記されている「よきサマリア人のたとえ」は、わたしたちがなかなか越えられない隔ての壁を越えたサマリア人のことを伝えています。一人の瀕死の傷を負ったユダヤ人の旅人の傍らを祭司とレビ人とサマリア人が通りかかりました。しかしユダヤ人であり宗教的指導者である祭司とレビ人はその人を無視して通り過ぎてしまいます。しかしその後通りかかったサマリア人は、この旅人に対してためらうことなく介護の労を執りました。当時サマリア人はユダヤ人から蔑まれ、嫌われていたにもかかわらずです。

 このサマリア人とは誰のことでしょうか。わたしたちは主イエスが罪ある者のために、身をかがめて十字架の死を遂げてくださったことを知っています。「わたしがあなたがたを愛したように」とはそのことを指しています。この愛こそ、あらゆる隔ての壁を取り除き、すべてを包む愛にほかなりません。主はこの愛の故に「互いに愛し合いなさい」と、唯一の掟をわたしたちに与えられました。主イエスの真実な愛に生きるわたしたちでありたいと思います。
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2015年10月 
  「心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る。」   (マタイ5:8)

   イエスさまは山上の説教(マタイによる福音書5〜7章)の中で「幸いだ。心の清い人たちは。なぜならその人たちは神を見るから。」と言われました。心が清いということは、それほど大きな恵みだと言われたのです。

 それではイエスさまはどのような意味で「心が清い」ということを言われたのでしょうか。ここで「清い」と訳されている言葉のもともとの意味は「純粋な」「二心のない」です。ですから「心が清い」とは、その人の心がどこまでもまっすぐで混じりけがない…ということになります。

 しかし、どんな人であっても心の奥の奥までまっすぐで混じりけがないということがあるでしょうか。誰でも心の奥の奥には自分を誇ったり、人のことを悪く思ったり、憎んだりする思いが潜んでいるように思います。ですからもしどこまでもまっすぐな心があるとすれば、それは神さまの恵みと導きによる他ないに違いありません。

 そうです。誰であれ神の限りなく深い赦しの御心に触れて、わたしたちの心の中にある不純な思いが小さく砕かれていくとき、はじめて清い心が芽生えるのです。そして神の慈しみ深さを知れば知るほど、わたしたちに与えられている清さは一層深められるでしょう。そしてまた混じりけのない、へりくだった心は、他の人の心をも変えていくのです。神を見るほどの「幸い」がそこにあります。「心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る。」この祝福の御言葉に生きるわたしたちでありたいと思います。     
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2015年9月 
 「成長させてくださったのは神です」(コリントの信徒への手紙一 3章6節)  

ようやく秋の気配を感じるようになってきました。収穫の喜びの季節が近づいています。聖書の大地であるパレスチナでも変化に富んだ地形の関係もあって小麦やぶどうなど多くの種類の産物が穫れます。このため聖書には作物の成長や収穫に触れた言葉が多く出てきます。マルコによる福音書4章1〜9節に記されている「種まきのたとえ」もその一つです。

 ある種は道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまいました。別の種は石だらけのところに落ち、芽は出しましたが日が昇ると枯れてしまいました。また別の種は茨の中に落ち、伸びはしましたが茨にふさがれて実を結ぶことはできませんでした。しかしよい土地に落ちた種は成長して実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなったという「成長」に深く触れているたとえです。

 ここでイエスさまが「種」という言葉で語ろうとしておられるのは、一人一人の心の畑に蒔かれた「神の言葉」です。種が蒔かれても、地面が硬ければ根を張ることができませんし、またせっかく育ってきても雑草が覆いかぶさってくると成長が抑えられ、実を結ぶことができません。心に蒔かれた神の言葉の種も同じです。成長にとって大切なことは神の言葉を受け入れることができる心の畑の柔らかさ、つまり素直な心ではないでしょうか。神の言葉を聞き続けることができる心とも言えるでしょう。そのためには成長させてくださる神の導きを祈り求めることを忘れてはなりません。成長を阻むさまざまな力がまわりにあるからです。わたしたちを成長させてくださる本当の力、それはわたしたちを愛してくださる神の御心にこそあります。そのことをいつも心にとめていましょう。           
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2015年8月 
 『 招  集  と  派  遣 』

 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。そこで、12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(13〜15節)と告げられています。ここには12人の人間的な資質や能力についての説明はありません。彼らはただ「これと思う人々」すなわち〈主の御心にかなった人々〉であり、主が呼び寄せられたので御許に来、主が遣わされたのでそこから出ていったのです。わたしたちはここに、主の招集と派遣という生き生きとした生命体としての教会の姿を見ます。教会とは主の招集をもって完結するところではなく派遣を伴うのです。

 13節は「イエスが…呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた」と述べています。このように教会は何よりもキリストの招集によって集められます。ここで招集された12人は教会の原型であり、礼拝者の姿に他なりません。そしてわたしたちも「彼らを自分のそばに置くため」(14節)と言われるように、主の日に招集者の許に集められます。礼拝(レイトゥルギア)は〈民の業〉という意味ですが、一週間を生きたわたしたちはここにおいて、御言葉と聖餐に与り、恵みの袋を一杯にして、その溢れる恵みを携えてこの世へと派遣されるのです。

 ここで14〜15節「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせ…」に注目しましょう。派遣には二つの働きがあるということが分かります。すなわち〈宣教〉と〈悪霊を追い出す〉ことです。宣教の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)に凝縮されます。しかしこの宣教は単なる言葉の伝達ではありません。神の国は出来事です。主イエスはこう言われます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と。ですから悪霊を追い出す業は、神の国の到来を告げるしるしに他なりません。招集と派遣という神の国の力強い営みにいよいよ心をこめて仕えて参りましょう。
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2015年7月 
「行って、あなたも同じようにしなさい」 (ルカによる福音書10章37節 )

 もし誰かに「あなたは家族を愛していますか?」と尋ねられたとしたらどうでしょうか?。わたしたちは迷わず「はい」と答えるに違いありません。ではもしその問いが「あなたは隣人を愛していますか?」であったとしたらどうでしょうか。恐らくすぐに答えられる人は少ないでしょう。なぜならそこに「隣人」という言葉が用いられているからです。果たして「隣人」とは誰のことでしょうか。

 あるときイエスさまは、自分は隣人を愛していると自負している律法の専門家に対して一つのたとえを話されました。よく知られている「善いサマリア人のたとえ」です(ルカ10章30〜35節)。一人のユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて瀕死の状態で倒れていました。しかしそばを通りかかった同じユダヤ人である祭司とレビ人は通り過ぎて行き、そこを通りかかった一人のサマリア人はその人に近づいて、考え得る限りの介護をしたのです。当時多くのユダヤ人は歴史的な経緯から異邦人との接触を余儀なくされたサマリア人のことを不浄な人たちと考えていました。ところがそのサマリア人が、ユダヤ人である旅人にとって真の隣人となったのです。

 イエスさまはこのように話された後、律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい(37節)」と言われました。ほどなく十字架の上でご自身の全てを与え尽くされ、隔ての壁を打ち破られる方がそのように言われたのです。この言葉はわたしたちにも向けられています。イエスさまの十字架の愛に生かされて、わたしたちもあのサマリア人の生き方に倣いたいものです。           UP
2015年6月 
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」  (ヨハネによる福音書15章5節)

 イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と弟子たちに言われました。ご自分をぶどうの幹に、弟子たちをその枝にたとえて語られたのです。パレスチナに住む人たちにとってぶどうの木は大変身近で親しみのあるものでした。ですから弟子たちはイエスがなぜこのたとえを語られたのかをすぐに理解できたに違いありません。

 実はこのたとえが語られたとき、弟子たちは心を騒がせていました。「わたしはほどなく十字架につき、あなたがたの間から去って行く」と言われたからです。もちろんイエスは“残された自分たちはどうなるのだろう”と激しく動揺する彼らの心を読んでおられました。ですからイエスはこのたとえによって、わたしとあなたがたとの結びつきは不変なのだと告げてくださったのです。

 たとえに注目しましょう。ここには二つの意味がこめられています。一つはイエスと弟子たちとの生命的なつながりです。ぶどうの幹と枝の間に生命的なつながりがあるように、イエスと弟子たちの間にもイエスの愛と恵みに満ちた言葉によって揺るぎないつながりが成立しているということです。

 今一つはこの確かなつながりの結果としてもたらされる実りです。単につながっているというのではなくて、確かな実りが与えられるのだと言われています。イエスの十字架と復活と昇天の出来事の後、約束の聖霊が降り、弟子たちはイエスの復活の証人として各地に遣わされ、多くの人たちがイエスを救い主として信じるようになり、新しい枝とされたのです。今日まで多くの人たちがイエスという幹につながれてこの方の命に育まれてきました。わたしたちの希望もまたここにあります。
                            
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2015年5月 
 わたしは良い羊飼いである。(ヨハネによる福音書10章11節)

 イエスさまが話されたたとえ話の中に「迷子になった羊のたとえ」があります(ルカによる福音書15章)。ある人に百匹の羊がいました。それだけの数の異なる性格を持った羊がいたということになります。用心深い羊もいたでしょうが、すぐはしゃいだり、どんなことにも興味を持ってやってみたくなる羊、一つのことに夢中になると周りのことが見えなくなる羊もいたはずです。

 そしてある日一匹の羊が迷子になってしまいます。この羊は最後のタイプの羊だったのかも知れません。何かに夢中になっているうちに群れから離れてしまったのでしょう。群れから離れた羊は危険が一杯です。また一旦迷子になると自力では戻ることができないので、一刻も早く群れの中に連れ戻さなければなりません。羊飼いは、すぐに異変に気づきました。いつも群れ全体のこと、そして個性豊かな一匹一匹の羊たちのことに心を配っているからです。迷子になった羊のことを知り尽くしている羊飼いは、その羊の居場所について見当をつけ、すぐに捜し始めました。

 もう時間の猶予はありません。羊の身に危険が迫っているからです。羊飼いは大切な一匹を連れ戻すために全力を傾けます。もちろん身の危険も覚悟しなければなりませんが、聖書には「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と記されています。「良い羊飼い」とはこのような羊飼いにほかなりません。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とも言われています(ヨハネ10章11節)。

 イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われました。イエスさまは迷子になりやすいわたしたちのことを、あの羊飼いのように見守っていてくださいます。この恵みの囲いの中で生きるわたしたちでありたいと思います。                             
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2015年4月 
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 (マルコによる福音書16:1〜8))

『主は死に打ち勝たれた』                             
  主の復活の日の朝、主が納められていた墓にマグダラのマリアとヤコブの母マリア、そしてサロメが駆けつけたとマルコ福音書は伝えています。彼女たちは、墓の入り口をふさいでいる非常に大きな石のことを気にかけていました。ところがその石はすでに墓のそばに転がされており、墓の中に主の御からだはなく、彼女たちは「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」との御使いの声を聴いたのです。

 「ガリラヤ」そこは弟子たちが、主イエスと出会った場所であり、主が神の国の福音を述べ伝えられ、病気や悪霊にとりつかれた人たちをいやされたところです。またそこは「異邦人のガリラヤ」と蔑まれた場所でもあります。しかしこのとき告げられたガリラヤは、異邦人伝道を示唆するガリラヤであり、弟子たちを宣教と奉仕の業へと召し出すところにほかなりません。

 ではわたしたちにとってのガリラヤとはどこなのでしょうか。もちろんわたしたちがまず向かうべき場所は、主日礼拝の場でありましょう。わたしたちはそこで死に打ち勝たれた主と出会い、主の御声を聴き、恵みの糧に与ります。さらに復活の主はわたしたちをこの礼拝の場から新たなガリラヤへ遣わし、わたしたちを宣教と奉仕の担い手としてくださるのです。そこでわたしたちは新たな課題や働きを見いだしつつも、自らの弱さや貧しさを思い知らされることになるかも知れません。しかし主はまさにそこで出会ってくださるのです。そしてまた主はわたしたちより先にさらなるガリラヤへと進み行かれるでしょう。生ける主との出会いから出会いへと進むわたしたちでありたいものです。            UP
2015年3月 
 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。                  

わたしたちの時代は深く病んでおり癒しを必要としています。一人の重い皮膚病を患っている人が主イエスによって癒されました。主は当時のユダヤ社会通念を打ち破り、患部に触れることによってこの人を絶望的な苦悩から解き放ってくださったのです。

 それだけではありません。こう記されています。「重い皮膚病を患っている人が、主イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」(40節)と。これは「わたしに触れて癒してください」という直接的な言葉ではありません。そうは言わせないユダヤ社会の現実が陰を落としています。しかしこの人は主の許にひざまずき「御心ならば…」と存在を傾けて癒やされることを求めました。

  このとき主イエスはこの言葉の中に、この人の信仰を見られたのです。「御心ならば…」とは、一歩引いたような消極的な言葉ではなく、現実がどれほど過酷であっても、この方は決してお見捨てにならない、最善の道をお示しくださるとの極めて深い信頼の言葉にほかなりません。十字架上で「なぜわたしをお見捨てになったのですか(15:34)」と言われるほどの苦しみを味わわれる方への信頼です。そして今、まさにその方が、誰も触れようとしなかった現実に手を差し伸べ、患部に触れくださいました。病める者を癒し、清め、新たな道を歩ませてくださったのです。わたしたちの希望もまたここにあります。           UP
2015年2月 
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。      (マタイによる福音書7章7〜8節)

 聖書の言葉の中でイエスが言われた「求めなさい。そうすれば、与えられる」は、よく知られている言葉の一つではないでしょうか。これはわたしたちがイエスの御名によって神に祈り求めるならば、その祈りに応えてくださるとの約束の御言葉です。ですからわたしたちがどれほどの窮地や行き詰まりの中に置かれることがあるとしても、神に祈ることを忘れてはなりません。

 そうです。神はわたしたちが祈り求める一つ一つの言葉に、それがどれほど小さな声であったとしても、耳を傾けていてくださる方です。けれどもどんなに祈っても聞かれない…と落胆することがあるかも知れません。確かに苦しいことです。神はわたしたちの必要を本当にご存知なのでしょうか。

 ええ、もちろんご存知なのです。神はわたしたちの祈りに耳を傾けつつ、何が本当にその人に必要なものかを見極めてくださり、最善の道を備えてくださいます。それは必ずしもわたしたちの願い通りではないかも知れません。しかしわたしたちのことを誰よりもご存知であってくださる方が、その深い御心によって門を開いてくださることに、わたしたちも信頼を寄せたいと思います。 わたしたちの人生には喜びのときも悲しみのときもあります。けれどもその一つ一つに神の御心が置かれていることに信頼して、備えられた道を歩んで参りましょう。イエス御自身も祈りつつ、十字架という苦難の道こそ神の御心であることを受けとめて歩まれました。そして十字架の死を経て、わたしたちのために復活の命を得てくださったのです。わたしたちの希望がここにあります。             UP
2015年1月 
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。      (ルカによる福音書2章8〜12節)

「救いのおとずれ」

ユダヤのベツレヘムの野辺に、かつてない知らせを受け取った人たちがいました。羊飼いたちです。彼らは大変貧しい人たちでしたが、この夜聴くことができた知らせは、心躍らされるような救いのおとずれでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(11-12節)」と。

 御子は、高い身分や権力の座を選んでおいでになられたのではありません。むしろ身を低くし、誰も振り返ることさえしない貧しさと弱さの中に身を置かれました。だからこそこのおとずれは誰をも裏切ることなく、まことに救いの光として羊飼いたちを、そしてわたしたちを包み込むのです。

 このおとずれはまた、自分をより大きくしようと競い合い、権力抗争に明け暮れているこの世界に対する、神からの問いかけでもあるでしょう。他者が本当の意味で顧みられることのないところに、どうして人を生かす恵みが宿るでしょうか。それは危うさに満ちていると言わなければなりません。

 しかし御子によってもたらされる救いはそうではありません。御子は御父の御心に従い、御自身を罪の贖いとして与え尽くすためにお出でになりました。羊飼いたちが受け取った救いのおとずれがここにあります。わたしたちもこの方に信仰の眼をしっかり向けて、新しい年の歩みを始めて参りましょう。             UP
2014年12月 
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 」   (ルカによる福音書2:11) 

ユダヤのベツレヘムの野辺で羊の番をしていた羊飼いの人たちに救い主誕生という喜びの知らせがもたらされました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(11-12節)」と。彼らは権力の座にある人たちではなく大変貧しく力なき人たちでした。

 羊飼いたちが聞いた知らせには、自分をより大きくしようと競い合い権力抗争に明け暮れているこの世界に対するメッセージがこめられています。そうです。他を圧する力の上に成り立っている平和は、壊れやすく危うい平和でしかありません。

 しかし、御子のおとずれによってもたらされる平和はそうではありません。一見それはあまりにも小さく弱く、取るに足りないものに思えることでしょう。御子は無力な乳飲み子として飼い葉桶の中に寝かされているからです。でもそれは「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす(1:52-53)」ためでした。そうです。この方はあらゆる隔ての壁を取り除くために、身を低くしてご自身を差し出すために来てくださいました。このベツレヘムにお生まれになった方こそ、神と人そして人と人とをつなぐ平和の主にほかなりません。わたしたちも、羊飼いと共にこの方のところに急ぎ行き、この方をお迎えしようではありませんか!             UP
2014年11月 
 「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい」
(テサロニケの信徒への手紙(一)5章16、18節)

 わたしたちが生きているこの時代は本当に様々な悩みを抱えています。またわたしたち自身も、家族一人一人のこと、生活設計や仕事のこと、健康等について、決して小さくはない心配事があるのではないでしょうか。

 ところが聖書は、このような時代やわたしたちの現実を知りつつ、「いつも喜んでいなさい」と語りかけるのです。「いつも」とは「良いときだけでなく悪いときも」ということです。何かを達成したときに喜ぶことは当然ですが、困難な課題を抱える中でも「喜んでいなさい」と語ることができるのは何故なのでしょうか。

 この喜びの言葉を伝えたのはパウロという伝道者です。彼は人生に辛いことや悲しいことがあるということをよく分かっていました。というのも、彼自身多くの艱難を経験し、また深刻な持病も抱えていたからです。彼はその持病についてコリントの信徒への手紙(二)12章7節で「神から与えられたとげ」と言っています。この「とげ」それ自体は非常に痛いものだったようで、彼は「このとげを取り除いてください」と三度も祈っています。しかし彼は祈る中で、この弱さも神の御心であり、この弱さの中でこそ神の恵みは豊かにもたらされ輝くのだという真理を知らされたのでした。ですから彼は「喜んで自分の弱さを誇りましょう(12章9節)」とまで言っています。
 したがってここで「いつも喜んでいなさい」と語られるとき、それはパウロの強がりではなく、決して裏切られることのないキリストの十字架の恵みに裏打ちされた言葉にほかなりません。行き詰まるかに思えるときでも、キリストの恵みの力が臨み、進むべき道が開かれるのです。わたしたちもここに立ちたいものです。           UP
2014年10月 
 「わたしは命のパンである。」(ヨハネ6:48)


人は肉のパンなしには生きていくことができません。しかし人が生きるために必要なものはそれだけでしょうか。

 一人の少年がイエスに大麦のパン五つと魚二匹を差し出しました。男の数だけで五千人もの人々が肉の糧を必要としていたからですが、弟子たちはこんな僅かなものでは何の役にも立たないと判断します。ところがイエスは、全く打つ手がないと思えるこの状況の中で、パンと魚とを増やし、大勢の人々を養われたのです。

 この奇跡は人々に強い印象を残し、語り継がれることになりましたが、わたしたちはこの出来事の中心を見失ってはならないでしょう。イエスは「わたしは命のパンである」と言われました。ちょうどわたしたちがパンをかみ砕き、飲み下すことで生かされるように、イエスはご自身を「命のパン」として、すなわちわたしたちを生きる希望と慰めによって満たす「御言葉のパン」として差し出してくださるのです。そのためにこそ、イエスは十字架への道を進まれました。

 伝道者パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)と述べています。「イエスこそ命のパンである」と心から言い表すことができるわたしたちでありたいと思います。             UP
2014年9月 
 
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)

 今、世界各地で起こっている紛争から、国の指導者の役割がどれほど重要かを思い知らされます。指導者の判断がその国の命運を決することになるからです。それだけに指導者の姿勢が常に問われることになります。その望ましい姿はどこにあるのでしょうか。

 ダビデはかつてのイスラエル王国の王であり、しばしば理想の王と称えられる人物です。ただ、決して完璧な人だったわけではなく、重大な過ちを犯したこともあります。しかし彼は指導者として最も大切なものを持っていました。

 神への限りなく深い信頼がそれです。その姿勢は小さいときから生涯を閉じるまで変わることはありませんでした。ダビデがペリシテの戦士ゴリアトを倒したことはよく知られています。まだ少年であり、武器らしい武器も持たない彼が、身の丈3メートルもある大戦士ゴリアトを倒すことができたのも、神が共にいてくださることへのあつい信頼があったからでした。ダビデはこの戦士にこう言っています。「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。…主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない…」と。

 ダビデは王となってからも、自分の力に頼っておごり高ぶることなく、常に神の御心に立ち戻る謙虚な姿勢を崩すことはありませんでした。国の指導者のこの姿勢が、国を正しく導いたのです。詩編23篇はそのダビデのうたです。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない(1節)」と彼はうたいました。どんな苦しいときでも、あなたの御手が届かないことはなかったと、神への限りなく深い信頼が言い表されています。わたしたちもこの信頼へと導かれたいものです。          UP
2014年8月 
 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。」 (マタイによる福音書11章29節)

  主イエスは「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われました。どんな人でも生きていくためにいろいろな荷物を背負っています。家族のこと、生活のこと、仕事のこと、病のことなどです。主はそれを「重荷」と言われました。「重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われたのです。
ここで注意したいのですが、主イエスは「あなたの重荷は無くなりますよ」とおっしゃったわけではありません。重荷をかかえたまま、わたしのところに来なさいと言ってくださったのです。そして「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる」と言われました。

「軛」というのは、畑を耕す二頭の牛の首を固定するための道具です。軛にはくぼみが付けられていてその部分を首に乗せるのですが、その際その軛がぴったり合っているかどうかが最も重要なこととなります。主が言われた「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という言葉は、まさにそのことではないでしょうか。

軛のくぼみの形はその人その人によって違うと今聴きました。主はわたしたち一人一人のことを分かってくださった上で、ぴったりとした軛を負わせてくださるに違いありません。ですから主は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのです。

 終わりに主イエスが負ってくださった重荷のことに心を向けたいと思います。主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言われました。「柔和」も「謙遜」という言葉も、主が身を低くして重荷を負ってくださる方であることを表しています。事実主は十字架の痛みと苦しみを最後まで負い抜いてくださいました。だからこそこの方は、わたしたちの重荷を理解してくださるのです。わたしたちの希望がここにあります。        UP
2014年7月 
  「わたしは必ずあなたと共にいる」   (出エジプト記3章12節)

 生まれたばかりのモーセに危機が迫っていました。どんどん数を増していくヘブライ人を恐れたエジプト王が「その家庭に生まれた男の子をすべてナイル川に放り込んで殺してしまえ」と命じたからです。母親は三ヶ月間何とか隠し通すのですが、泣き声も大きくなり、もう隠しきれないと思いました。そしてパピルスでつくった籠に赤ちゃんを入れ、ナイル川にそっと流したのです。

 このときの母親の心境は察するに余りあります。しかしこの母親は信仰深い人でした。生きてほしいとの切なる願いをこめ、神の御手にすべてを委ねて、小さな籠を見送ったに違いありません。出エジプトは、一人の女性のこのような神への強い信頼から始まったことを心にとめたいと思います。

 さて神の御手に守られた小さな籠は無事発見され、モーセはエジプトの王女の子として育てられることになりました。そのまま宮廷にとどまれば、モーセの将来はバラ色だったでしょう。ところが神のご計画はそれとは全く別のところにありました。

 ある日、モーセは同胞のヘブライ人を助けるために一人のエジプト人を殺してしまいます。そのため彼はエジプトを逃れてミディアン地方にたどりつき、ある家庭に身を寄せました。そしてこの地で神の召しを受けたのです。神は言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。

 思いがけない神の御声を聞き、「わたしには荷が重すぎます」とモーセはたじろぎます。しかし、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださったのです。モーセのその後の歩みは困難の連続でしたが、この約束の御言葉が彼を支え続けました。わたしたちの希望もまたここにあります。      UP
2014年6月 
 「ノアは神と共に歩んだ」 (創世記6章9節)

 創世記は旧約聖書最初の書です。その6〜8章にノアと洪水の物語が記されています。この大変衝撃的な物語の背後に何があるのでしょうか。それは古代人が経験した恐ろしい大洪水の記憶だと考えられます。その記憶はチグリス川、ユーフラテス川一帯で生み出されました。ここはメソポタミア文明発祥の地であり、やがてアッシリアやバビロニアという大帝国が興ってくるところですが、この地の深いところから大洪水の地層が見つかっています。

 さて紀元前六世紀、国破れてバビロニアに捕らえ移された南王国ユダの主だった人々は、この地に伝えられている洪水物語と出会いました。しかし彼らはこの物語を伝えられたまま受け取ったのではなく、天地を創造された神の深い御心を示す全く別の物語として聖書に記したのです。

 「この地は神の前に堕落し、不法に満ちて…(11節)」と創世記は記しています。人間は神の御心を求めて生きる幸せが与えられていたにもかかわらず、神に背を向けて自らの欲望を満たすことばかりを追い求めた結果、地には不法が満ちたのです。洪水が起こされた理由がここにあります。だとすればこの物語はわたしたちにも「今あなたがたはどのように生きていますか?」と問いかけているのではないでしょうか。

 この物語の中心に向かいましょう。それはノアとその家族の生き方です。ノアは不法がますます広がっていく中にあって神と共に歩みました(9節)。彼と彼の家族は神の前に恵みを得、洪水後の新しい世界に神の祝福をつなぐ存在となったのです。わたしたちの希望がここにあります。     UP
2014年5月 
 「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)

  札幌の例年になく厳しかった冬が終わり、ようやく春を迎えようとしています。環境の変化による異常気象が地球規模で恒常化しつつあるようです。このような地球環境の問題と聖書のメッセージとは一見関係なさそうですが、実はそうではありません。聖書の冒頭にある創世記には「初めに、神は天地を創造された(1:1)」とあり、また「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である(1:31)」と記されています。そして人間は最後の六日目に創造され、造られた世界を神の御心に適って管理することが委ねられたのです。  ところが神がよしとされたこの世界に異変が起こります。最初の人アダムは妻と共に「食べてはならない。食べると死ぬ」と言われていた園の中央の木の実から取って食べてしまいました。つまり人間は自ら神のようになろうとし、決して越えてはならない一線を越えてしまったのです。その結果人間の悪が地上にはびこりました。神は人を造ったことに心を痛められ、ノアとその家族を除き、すべてを洪水によって滅ぼされ、世界は混沌に戻ってしまいました。  この創造物語はわたしたちに、もう一度この世界を創造された神の御心に立ち帰ることを求めているのではないでしょうか。神が創造された世界は「極めてよかった」すなわち祝福に満ちていたとわたしたちは聴きました。神の御心を離れては、わたしたちの祝福もありません。この世界がもう一度神の祝福へと立ち帰ることができるように、わたしたち自身も神の御心をこそ求めることができるように祈り求めたいと思います。   UP
2014年4月 
 「神は愛です」 (ヨハネの手紙一 4章16節

   聖書は多くの言葉で神さまがどのようなお方なのかを語っています。しかし「神は愛です」以上に神さまを語るにふさわしい言葉はありません。もちろん神さまは正しい方ですから、人間の不正を裁かれることもあります。神さまはすべてのことを見ておられるからです。他人のものを盗んだり、奪ったりすることを神さまはお許しになりません。しかしそれでも神さまの御心の一番深いところに愛があるのだということ、それが聖書のメッセージです。

 愛するということは本来無条件のはずです。たとえば子供を愛するというとき、わたしたちは条件を付けたりするでしょうか。小言を言うことがあっても心の深いところではわが子をあるがままに受け入れていると思います。子供のためならどんなことでもしてあげたい、それが親の気持ちというものです。

 ところがわたしたちのそのような愛がいつまでも持続できるかと言えば、なかなかそうはいきません。子供も少しずつ成長して色々なことを言うようになりますし、頭で分かってはいてもつい言い過ぎてしまうこともあるでしょう。まして他の家族とか周りの人々まで範囲を広げた場合、わたしたちの愛には思いの外限界があることに気づかされると思います。すべてを受け入れるはずの愛が憎しみに変わることだってあり得るのです。

 しかし神さまの愛はそうではありません。どのようなことがあるとしても、最後まで見捨てないでわたしたちを受け入れてくださる愛、それが神さまの愛です。「神は愛です(4章16節)」という聖書の言葉には無限の深さがあります。与えられている聖書の4章10節は「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と告げています。わたしたちを本当に生かす愛がここにあります。この愛に生かされ、導かれ、支えられて、共に歩んで参りましょう。   UP
2014年3月 
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカによる福音書19:1〜10)

『救いの訪れ』

 人は誰も、人生のよい道を行くときにも、困難な道を行かなければならない時にも、わたしにはこの希望があるので生きていくことができると言える、確かな支えを必要としています。

 ザアカイという人はエリコという町の徴税人であり、そのかしら頭でした。しかし人々から税を取り立てるというその仕事柄、人々との交わりからは遠ざけられていたのです。聖書はこのザアカイの心の中についてほとんど触れていませんが、その思いの底に何があったかは彼の行動が物語っているように思います。すなわち彼は、主イエスがエリコの町に来られたとき、人々にさえぎられてもあきらめず、先回りしていちじく桑の木に登ったのです。このとき彼には、今どうしてもこの方とお会いしなければ、自分には救いのときが失われてしまうという極めて強い思いがあったに違いありません。これが主イエスとザアカイとの出会いでした。

 彼が聴いた主イエスの御声を聴きましょう。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから…」今一つは「きょう、救いがこの家にきた…」です。ここで「泊まることにしている」とありますように、主イエスが彼のところにおいでくださることは、すでに神様において決定していることであり、偶然の出会いではありませんでした。この方こそ、あの十字架において全き孤独の死を遂げられ、その受けられた傷においてわたしたちの罪という傷を癒してくださる方にほかなりません。この方と出会い、「きょう、救いがこの家にきた」との御声を、わたしたちも心深く聴き取りたいものです。     UP
2014年2月 
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」  (詩編119編105節)

   わたしたちは山あり谷ありの人生を生きています。ですからしっかりした道しるべがぜひとも必要です。では「わたしの歩みを照らす」道しるべとは何でしょうか。聖書はそれを「あなたの御言葉」つまり「神の言葉」であると告げています。聖書にはまた、神の言葉を道しるべとして歩んだ多くの人たちのことが記されていますが、その一人アブラハムに思いを向けましょう。

 創世記12章によれば、彼はあるとき「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」との神の御声を聞き、住み慣れた場所をあとにするのです。まさに神の御言葉だけを頼りにした旅立ちでした。彼が75歳のときのことです。ユーフラテス川のはるか上流にあるハランという場所からカナンと呼ばれる約束の地までは直線距離にして600キロほどの道のりがあります。おそらく実際の距離は千キロを超えていたでしょう。一日に20キロ進んだとしても50日前後かかる計算になります。しかも妻のサライ、甥のロトそして多くの家畜を連れての旅です。自分の経験や勘を頼りにするだけでは続けることができない困難な旅だったに違いありません。

 新約聖書のヘブライ人への手紙はこのことに触れて、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)「アブラハムは…行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11:8)と記しています。信仰の人アブラハムはどれほど困難な状況に置かれても、ただ神の御言葉に信頼して旅を続け、ついに約束の地に入ることができました。そして彼のこの姿勢は、約束の地に住むようになってからも変わることはなかったのです。彼を支えていたもの、それは、どのような道を歩むとしても神は御言葉によってわたしの道の光となってくださり、わたしの歩みを照らす灯となってくださるとの、神への変わることのない信頼でした。わたしたちもこの信頼に生きる者でありたいと思います。    UP
2014年1月 
「すべての人を照らす光が世に来た」 (ヨハネによる福音書1章9〜18節)

 
  ヨハネによる福音書はクリスマスのメッセージを次のように告げています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(1:9)」と。まず「その光は…世に来て」とあります。御子イエス・キリストは、わたしたちの世に確かに来てくださいました。しかし、来られたけれども、わたしたちの世をそのまま通り過ぎて行かれたのではありません。そうではなく、しっかりとどまってくださり、暗闇に取り囲まれていたわたしたち一人一人を照らし出してくださいました。

 この光は「すべての人を照らすのである」と言われます。確かにわたしたちの現実は、依然として闇が支配しているかのようです。暗い出来事が次々に起こっています。しかし、キリストの光は、ある人には届き、ある人には届かないということはありません。「すべての人を照らす」と言われていますように、誰にでも、どこまでも届く光なのです。そうです。その人の中にどれほどの暗い部分があるとしても、かえってその部分を明るく照らし出し、希望の光を射し込ませてくださいます。そしてまた、キリストの光が照らされた以上、闇がこれを上回って勝利することはありません。闇は光にのみ込まれたからです。ここに御子の降誕の喜びがあります。この光にすみずみまで照らされるわたしたちでありたいものです。
   UP
2013年12月 
「 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 (ルカによる福音書2章11節) 

 新約聖書には二つのクリスマス物語があります。マタイによる福音書が伝えている博士たちの物語と、ルカによる福音書が伝えている羊飼いたちの物語です。もちろんこれに先だってマリアとヨセフの物語があるのですが、救い主誕生の知らせを受け取った人々として、聖書は博士たちと羊飼いたちのことを記しています。一方は遠い国の人たちであり、もう一方は近くにいた人たちでした。

 羊飼いたちは、イエスが生まれたユダヤのベツレヘム近郊の荒れ野で羊の番をしていた貧しい人たちです。ですから天使たちが救い主の誕生を告げたとき、彼らはすぐに駆けつけ、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。一方博士たちはベツレヘムから東に一千キロほども離れたところの異邦人です。しかしマタイによる福音書によれば、占星術師であった彼らにも、輝く星によって喜びの知らせが届けられました。このように二つの福音書は互いに補い合うようにして、クリスマスの深いメッセージを伝えています。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」この知らせは、ルカによる福音書によればユダヤ人である羊飼いたちにもたらされました。しかしこの福音書はユダヤから遠く離れた異邦人のために書かれたことを忘れてはならないと思います。この知らせは民族の壁を超え、どのような隔てをも超えて届けられているのだということをルカは伝えたかったに違いありません。羊飼いたちだけでなく、博士たちも、そしてわたしたちも、どれほど隔てられている人たちも、この喜びの知らせを受け取ることができるのです。わたしたちの希望がここにあります。   UP
2013年11月 
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
         (ヨハネによる福音書15章12節)

 今わたしたちの時代は、互いに愛し合うことを切実に必要としているのではないでしょうか。愛が届かないという深刻な現実が少なくありません。なぜ愛が届かないのでしょうか。誰も人を愛する思いを持っているはずですが、いつの間にかこれを抑える力が働いて隔ての壁をつくってしまいます。

 この壁を取り除くことは可能でしょうか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。わたしたちの愛が先にあるのではなく、イエスの愛が先にあることが分かります。イエスがわたしたちに与えられた唯一のおきて がここにあります。この掟はあの愛の壁を取り除く掟にほかなりません。

 ルカ福音書10章25〜37節に記されている「よきサマリア人のたとえ」を聴きましょう。一人の瀕死の傷を負ったユダヤ人の旅人のかたわらを祭司とレビ人とサマリア人が通りかかりました。しかしユダヤ人であり宗教的指導者である祭司とレビ人はその人を無視して通り過ぎてしまいます。しかしその後通りかかったサマリア人は、この旅人に対してためらうことなく介護の労を執りました。当時サマリア人はユダヤ人からさげすまれ、嫌われていたにもかかわらずです。

 このサマリア人とは誰のことでしょうか。わたしたちはイエスが罪ある者のために身をささげて、十字架の死を遂げてくださったことを知っています。「わたしがあなたがたを愛したように」とはそのことを指しています。この愛こそ、あらゆる垣根を取り除き、すべてを包む愛にほかなりません。イエスはこの愛の故に「互いに愛し合いなさい」と、唯一つの掟をわたしたちに与えられました。イエスの真実な愛故に、この掟に生きるわたしたちでありたいと思います。    UP
2013年10月 
  「心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る。」    (マタイ5:8)

 わたしたちは人との出会いの中で、心が本当にまっすぐで清らかな人と言葉を交わして、心洗われるような経験をしたことがあると思います。このように心が清いということは、周りの人たちをも包み込むような不思議な力があります。そして聖書にも「心が清い人たちは幸いである」という言葉が記されているのです。

 それでは聖書はどのような意味で「心が清い」ということを語っているのでしょうか。ここで「清い」と訳されているもともとの言葉の意味は「純粋な」とか「二心のない」という意味です。聖書も心が純粋で混じりけがないこと、つまり心がまっすぐであることを「清い」と言っていることが分かります。

 それではその純粋でまっすぐな心はどこから出てくるのでしょうか。もしそのような心が最初から備わっているとしたら、それは神の恵みの賜物に違いありません。しかし最初からそのような恵みを受けている人も含めて、実はすべての人が神の清さの前に導かれて、そしてまた神の限りなく深い赦しの御心に触れて、わたしたちの心の中にある不純な思いが取り除かれていくこと、そして真に混じりけのない心を与えられて、神と人とに向かうことの大切さを聖書は教えています。神の御前にへりくだり、心をまっすぐに神に向ける人は、人に対しても「清い心」を傾けることができるのです。「心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る」この祝福の御言葉に生きるわたしたちでありたいと思います。 UP
2013年9月 
 「成長させてくださったのは神です」   (コリントの信徒への手紙一 3章6節)

 聖書の大地であるパレスチナでは変化に富んだ地形の関係で多くの種類の収穫物が採れますが、特に小麦やぶどうなどの産地として知られています。ですから聖書にはこれらの作物の成長や収穫に触れた言葉が多く出てきます。

 マルコによる福音書4章1〜9節に記されている「種まきのたとえ」もその一つです。ある種は道ばたに落ち、鳥が来て食べてしまいました。別の種は石だらけのところに落ち、芽は出しましたが日が昇ると枯れてしまいました。また別の種は茨の中に落ち、伸びはしましたが茨にふさがれて実を結ぶことはできませんでした。しかしよい土地に落ちた種は成長して実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなったというたとえです。「成長」ついて深く考えさせられるたとえではないでしょうか。

 ここでイエスが「種」という言葉で語ろうとしておられるのは、一人一人の心の畑に蒔かれた「神の言葉」です。イエスは心の成長の大切さを語られました。種が蒔かれても、地面が硬ければ根を張ることができませんし、またせっかく育ってきても雑草が覆いかぶさってくると成長が抑えられ、実を結ぶことができません。心に蒔かれた神の言葉の種も同じです。

 ではどうすれば成長することができるのでしょうか。大切なことは心の畑の柔らかさだと思います。神の言葉を受け入れることができる素直な心です。神の言葉を聞き続けることができる心とも言えるでしょう。しかし持続することを阻むさまざまな力がまわりにはありますから、わたしたちの成長を見守ってくださる神の導きを祈り求めることを忘れてはなりません。わたしたちを成長させる力、それはわたしたちを愛してくださる神の導きの御手にこそあるのです。そのことをいつも心にとめていましょう。 UP
2013年8月 
「今日、救いがこの家を訪れた」 (ルカによる福音書19:9)

人は誰も、その心の中に、深い傷口を持っています。ザアカイという人はエリコの町の徴税人でした。税を徴収して、当時この地方を支配していたローマに納めることが彼の仕事でした。このため、町の人々からは支配者のために働く許せない人と見られていたのです。多くの人たちから嫌われ、法廷で証人として立つ資格もない罪深い人とされていました。

 しかしザアカイはこの日、イエスその方が町にはいって来られると聞き、その方にどうしてもお目にかかりたいと思いました。ところが群衆にさえぎられて見ることができませんでした。聖書には「それでイエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った…」と記されています(4節)。

  このように、この時彼は人々にさえぎられても決してあきらめませんでした。この機会をどうしても無にしたくない…と、心に期するものがあったに違いありません。さらに言えば、彼は本当はもうこの時、この方を必要としていたと言ってもよいでありましょう。彼はすでにイエスその方を求めていました。そうです彼は自分の心の底にある傷口、埋(うず)めることのできない空白の部分に気づいていたのです。

 そしてこのとき、思いもかけないことが起こります。ザアカイがいる場所までやって来られたイエスが、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。「ぜひ」という言葉で分かりますように、この言葉は「わたしは今日、あなたの家に必ず泊まります。もう泊まることに決めています…」というほどの大変強い言い方です。まさにこの言葉は彼にとって決定的な言葉となりました。こうしてこの日、彼と彼の家に救いがおとずれたのです。心の、あの深い傷口を癒してくださる方がおとずれてくださいました。わたしたちの希望もまたここにあります。 UP
2013年7月 
 「行ってあなたも同じようにしなさい」     (ルカによる福音書10章37節)

 ある律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに尋ねました。この人は聖書について詳しい知識を持っている専門家です。ですから、律法の中で一番大切な戒めは、心を尽くして神を愛することと、自分自身を愛するように隣人を愛すること(レビ19:18)であることをよく知っていました。おそらくこの人は、自分がどれほど立派な人間であるかを認めてもらいたいと思ってあえて尋ねたのでしょう。

 これに対してイエスが話されたたとえが、よく知られている「よきサマリア人のたとえ」です(ルカ10:30〜35)。あるユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて瀕死の状態で倒れていました。しかしそばを通りかかった同じユダヤ人である祭司とレビ人は通り過ぎて行きました。ところがそこを通りかかった一人のサマリア人はその人に近づき、その人の傍らに身を置いて、考え得る限りの行き届いた介護をしたのです。その人が助けを必要としていたからです。当時多くのユダヤ人はサマリア人のことを、異教徒との接触という歴史的な経緯により不浄な人たちと考えていました。つまり彼らの隣人のリストの中にサマリア人は入っていなかったのです。

 イエスはこのように話された後、律法の専門家に対して「行って、あなたも同じようにしなさい(37節)」と言われました。十字架の愛を隔てなく注いでくださる方が、「あなたも隣人となりなさい」と言われたのです。今この言葉はわたしたちにも向けられています。隣人となるということは、わたしたちの手持ちのものを制限し、惜しみなく差し出すことにほかなりません。イエスの真実な愛に心動かされつつ、わたしたちもあのサマリア人があらわした道を進みたいものです。 UP
2013年6月 
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節 )

 わたしたちが生きていくためには、しっかりした拠り所が必要です。思いがけないアクシデントや行き詰まりを経験することがあるからです。立派そうに見える家でも、もし土台がしっかりしていなければ、嵐が来たとき倒れてしまいます。もしわたしたちの日々の歩みが、砂の上に建てた家のようであったとしたら、思いがけない逆風が襲ってきたとき、耐えることは出来ないでしょう。 イエスは弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。穏やかな日々が続いているときに言われたのではありません。ご自身が十字架にかけられるときが迫っていました。弟子たちはこれまでもイエスを信じ、この方を拠り所として歩んできたのですが、それが本物かどうかがまさに試されようとしていました。

 イエスは弟子たちに十字架のときが近いこと、ほどなく肉の目には見えなくなることをお告げになります。しかし同時に、激しく動揺する彼らに対して、彼らとの結びつきが不変であることを「たとえ」によって話してくださいました。それが「ぶどうの木と枝のたとえ」です。イエスは十字架に死なれ、復活して天に昇り、肉の姿では去って行かれますが、十字架において示された愛は不変であり、イエスに心寄せる者たちとの結びつきは弱められてしまうのではなく、むしろ強められるのです。何者もこれを妨げることはできません。

 イエスはわたしたちに対しても「わたしの愛にとどまっていなさい」と呼びかけていてくださいます。「ぶどうの木であるわたしにしっかりつながっていなさい。確かな拠り所を得て生きて行きなさ」いとの御声を聴き続けるわたしたちでありたいものです。UP
2013年5月 
 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章11節 )


  イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる(11節)」と言われました。羊は大変依存的な動物だと言われます。好奇心はあっても視野がせまく、どこに行けば草や水があるのかは自分では分かりません。羊の群れを狙うオオカミなどもいました。もし群れから離れて迷ってしまうと、自分で群れにもどることはできないのです。

 ですから羊たちにとって群れを導く羊飼いの存在は絶対でした。ルカによる福音書によく知られている「迷子になった羊のたとえ」が記されています(15章)。ある人に百匹の羊がいました。ところがその内の一匹が迷子になり、いなくなってしまったのです。常に群れ全体のことに気を配り、個性が違う一匹一匹の羊たちのことに心を配っている羊飼いは異変に気づき、すぐに捜しに出かけます。羊の身に迫る危険を考えると一刻も早く見つけなければなりません。羊飼いは自分自身の危険をも顧みず、失われた一匹を連れ戻すために全力を傾けるのです。「良い羊飼い」とはこのような存在にほかなりません。

 誰にでも好奇心があり、自分の思いにまかせたくなります。しかしそれはわたしたちに取り返しのつかない誘惑や危険があるということでもあります。今自分がどこにいるのか、わたしたちは分かっているでしょうか。わたしたちのことを見守っていてくださる方がおられます。限りない十字架の愛をもって、失われた一人を捜し求め、ついに見つけ出してくださる方です。この方に見守られること、そしてこの方の声を聞き分けて従うこと、ここにわたしたちの確かな希望があります。UP
2013年4月 
  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (ルカによる福音書6章27〜36節)

『 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい 』

 神の国の福音が宣べ伝えられるところでは、それまで当然と思われていたことが、くつがえされるということが起こります。わたしたちが生きていることそれ自体の意味や目的が変わるのです。イエスは言われます。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。…求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない…」と。
 「敵を愛し」という言葉に注目しましょう。わたしたちの常識的な感覚とはあまりにもかけ離れているように思えます。しかし、もし「敵」ということばを「壁」という言葉に置き換えるとどうでしょうか。わたしたちの周りに存在する様々な壁が人と人とを引き離していると共に、わたしたち自身も新たな壁をつくってしまってはいないかと気づかせられるように思います。
 イエスはこうも言われました。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい(31節)」と。わたしたちの間の壁はすぐにできてしまいますが、イエスは「人と人との関係において、どんな壁もつくらないようにしなさい」と言われるのです。誰かほかの人の問題ではなく、わたし自身の問題であり課題なのではないでしょうか。
 イエスの最後の言葉は「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい(36節)」です。「あなたがたの父」すなわち神の憐れみ深さは、イエスその方の十字架のうちに示されています。十字架は人間の敵意の結果ですが、イエスはこれを自らに引き受けてくださることによってこれを砕き、赦しの恵みを来たらせてくださったのです。この恵みを求め、この恵みに生かされるわたしたちでありたいと思います。  UP
2013年3月 
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」   (ルカによる福音書15章1〜3節、11〜32節) UP  
 『赦しの恵みの深さ』

わたしたちが信ずる神は赦しの恵みに満ちた神でいられます。その赦しには限りがありません。ところが聖書の時代にこの赦しに条件を付けて考える人たちがいました。ファリサイ派の人々や律法学者たちです。彼らは、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた徴税人や罪人を見て不平を言い出したのです。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている(2節)」と。彼らの不平の理由は、イエスは神の赦しの範囲を広げすぎているというものでした。彼らの理解では異邦人は言うに及ばず、ユダヤ人であっても何らかの汚れを持つ人は罪人であり、律法とその内容としての神との契約の適用外の人たちであったからです。

 しかしこの不平に対して、イエスは一つのたとえでお答えになりました。11節以下のたとえは2人の息子たちと父親のたとえです。弟息子は父親から財産を受け取りますが結局使い果たしてしまいます。しかしすべてを失う中で彼は我に返り、父親の許に戻る決意をするのです。彼は「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と赦しを懇願します。そして父親は喜びに満ちて彼を迎え入れ「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった(24節)」と言ったのです。

 ところが兄息子には、この父親のしたことが不満でした。あのファリサイ派の人々や律法学者の場合と同様、弟息子に対する父親の態度は不条理だと考えたのでしょう。わたしたちもこのような思いがよぎることがあるのではないでしょうか。ですから今、父親が語った言葉に注目したいと思います。

 まず「いなくなっていた」という言葉に注目しましょう。ドイツ語聖書によればこの言葉の意味は「存在しない、孤独の、見捨てられた、絶望的な」です。また「見つかった」というギリシャ語は「ついに見つかった」という意味の言葉が用いられています。失われた者に対する神の無条件の愛と赦しの恵みの深さが言いあらわされているのではないでしょうか。神はその担い手として御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。罪赦されて生きることができる喜びがここに溢れています。 UP 
2013年2月 
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」   (マタイによる福音書7章7〜8節)     
 イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。わたしたちが生きていくためには多くのものが必要です。ですから生活の様々な場面で必要に迫られたとき、この御言葉は大きな励ましとなります。イエスは弟子たちに「我らの日用にちようの糧を、今日も与えたまえ」「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ」と祈りなさいと教えられました(主の祈り)。たとえわたしたちがどれほどの窮地に置かれたとしても、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と約束されていることを思い起こしましょう。

 今一つ、この同じ御言葉が問いかけていることがあります。わたしたちは自分に必要なものは自分が一番よく分かっていると思うかも知れません。しかしイエスが「求めなさい」と言われるとき、実は「あなたは真に求めるべきものを求めていますか」と問いかけてもおられるのです。

 では真に求めるべきもの、わたしたちが生きていくためになくてならないものとは何でしょうか。これに答えることは確かに易しいことではありません。自分で考えればすぐに答えが見つかるというものではないからです。しかし、だからこそイエスは真剣に祈り求めなさいと言われたのではないでしょうか。祈りに耳を傾けてくださる方は、わたしたちに本当に必要なものを分かっていてくださいます。その方が、「求めるならば与えられる」「門をたたくならば開かれる」と約束してくださったのです。わたしたちの希望がここにあります。 UP
       
 
2013年1月 
 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイによる福音書18章21〜35節 )     
『主の赦しの深さ』

イエスは言われた。   「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」 (22節)

 聖書によって語られる神は“赦しの神”です。そしてその赦しは限りなく深いと言うことができます。マタイによる福音書は18章15節以下のところで、この赦しの問題を取り上げています。ペトロは主イエスに対して「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか(21節)」と尋ねると共に、「7回までですか?」というように精一杯の答えを自ら提示しました。

 ところが彼はこの時、全く思いもよらない言葉を主イエスから聴くことになります。主は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい(22節)」と言われたのです。七回に数回加えられたとか、七の倍数くらいまでであれば、まだ何とか理解可能な範囲の「赦し」かも知れません。しかし主が言われた「七の七十倍」はわたしたちが考える赦しをはるかに超えています。

 23節以下のたとえは、正にこの主の赦しに触れて語られます。王の赦しの大きさは圧倒的なのです。単純に比較しても家来の赦しは王の赦しの50万分の一にすぎません。ですからこの人は借金を抱えている仲間に対して取り立ての権利を持ってはいますが、その優位さの故に相手に対して冷酷にふるまうことはできないはずです。なぜなら彼は王の無限の赦しにあずかっているからです。

 ただわたしたちは、主の圧倒的な赦しに立つよりも、相手に対する怒りの感情にまかせてしまう根強い傾向を抱え持っています。ですからわたしたちは、み言葉が告げる十字架の主の赦しに、その圧倒的な赦しの恵みに繰り返し立ち戻ることがぜひ必要です。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい(22節)」このみ言葉に生きるわたしたちでありたいものです。 UP
       
 
2012年12月 
  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。   UP
                   (ルカによる福音書2章1〜20節 )    
「平和のおとずれ」        
 
 ユダヤのベツレヘムの野辺で羊の番をしていた羊飼いの人たちに救い主誕生という喜びの知らせがもたらされました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(11-12節)」と。彼らは権力の座にある人たちではなく大変貧しく力なき人たちでした。

 そうです。この喜びの知らせには、自分をより大きくしようと競い合い権力抗争に明け暮れているこの世界に対するメッセージがこめられています。平和が保たれているように見えていても、それが他を圧する力の上に成り立っているのだとしたら、それは実に危うい支配であり、壊れやすい平和でしかないと言わなければなりません。

 ところが御子のおとずれによってもたらされる平和はそうではありません。それは一見あまりにも小さく弱く、取るに足りないものに思えることでしょう。御子は無力な乳飲み子として飼い葉桶の中に寝かされているからです。しかしこの方は「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たす(1:52-53)」ために来られました。ご自身のすべてを差し出して、あらゆる隔ての壁を取り除くために、わたしたちの世を訪れてくださったのです。この方こそ、「地には平和、御心に適う人にあれ!」と御使いたちがほめ歌う“平和”をもたらす方にほかなりません。わたしたちも、羊飼いと共に、その方の許に急ぎ行きましょう!  UP
 
2012年11月 
   「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」 テサロニケの信徒への手紙(一)5章16〜18節
 わたしたちが生きている時代は、多くの痛みや不安を抱えています。わたしたちの日々の生活も喜びのときばかりではなく、様々な心配事が絶えません。 感謝することよりも、嘆いたり相手を責めたりすることが多くなってきているのではないでしょうか。

 ところが聖書はわたしたちに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と語りかけるのです。この言葉は伝道者パウロが書き送った手紙の中に記されています。彼の働きで建てられたテサロニケの教会はまだ若い教会でもあり、様々な問題が生じていました。そこでパウロは問題の一つ一つに答えながら最後にこの言葉を記したのです。

 確かに日々の心配事や自分の力の足りなさ、解決の道の険しさなどを考えると、わたしたちから喜びや感謝の思いが失われていくかも知れません。しかしパウロは今わたしたちの思いを神に向けることを求めるのです。パウロという人は伝道者として様々な困難を経験し、また治癒が難しい病を抱えていましたが、どんなときでも神に守られ導かれてきました。つまり神の恵みは、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだということを身をもって経験してきたのです。ですからテサロニケの教会の人たちにも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と語りかけることができました。神の御手が届かないことは決してないということ、ここに彼の確信があります。  わたしたちもこの御言葉に励まされ、どのような日々も神の恵みの御手の中にあることに希望を置いて歩んで参りましょう。 UP
2012年10月 
 「わたしは命のパンである。(ヨハネ6:48))  
 
 イエスは少年が持っていた五つの大麦のパンと二匹の魚を受け取り、感謝の祈りを唱えて、男の数だけで五千人もの人々を養われました。しかも残ったパンが12の籠に一杯になるほどに十分に養われたのです。この出来事は人々の心に大きな衝撃を与えました。この奇跡物語の背景として考えられることは人々の貧しい暮らしです。またかつてエジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、荒れ野での困難な旅を続ける中で、マナという天から降ってきた食べ物すなわちパンで養われたことが思い起こされます。

 この二つの物語は、わたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか。ここで取り上げられている事柄の一つは、明らかにわたしたちが生きていくために必要な糧としてのパンの問題です。人はパンなしには生きていくことができません。糧を得るということは、状況が厳しければ厳しいほど、過酷であれば過酷であるほど切実な問題となります。手許にある分配可能なパンは僅かしかないからです。シモン・ペトロの兄弟アンデレはこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と。

 ところがイエスはこのような打つ手がないと思える状況の中で、神の慈しみの御業をあらわされました。さらに言えばご自身をあらわされたのです。「わたしは」命のパンである」と言われました。ちょうどわたしたちがパンをかみ砕き、飲み下すことで生かされるように、イエスはご自身を「命のパン」として差し出してくださり、わたしたちがこれを受け取り、かみ砕き、飲み下すことで生かされるのです。このことに触れて伝道者パウロはこう語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです」と(ガラテヤ2:20)。イエス・キリストに養われ、生かされることの幸いがここにあります。 UP
2012年9月 
 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(詩編23:1)  
 
 その国を治める政治的指導者の役割が重要なのは言うまでもありません。指導者の判断がその国の命運を決することになるからです。それだけに指導者の姿勢が常に問われることになります。その望ましい姿はどこにあるのでしょうか。

 ダビデはかつてのイスラエル王国の王です。しばしば理想の王と称えられる人物ですが、決して完璧な人だったわけではなく、重大な過ちを犯したこともあります。しかし彼は指導者として最も大切なものを持っていました。それは何でしょうか。

 それは神への限りなく深い信頼です。そしてその姿勢は小さいときから生涯を閉じるまで変わることはありませんでした。ダビデがペリシテの戦士ゴリアトを倒したことはよく知られていますが、まだ少年であり武具を身に付けず、武器らしい武器も持たない彼が、身の丈3メートルもある大戦士を倒すことができたのも、神が共にいてくださることへのあつい信頼があったからでした。ダビデはゴリアトにこう言っています。「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。…主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない…」と。

 ダビデは王となってからも、自分の力を誇示しおごり高ぶるのではなく、常に神の御心に立ち戻る謙虚な姿勢を持っていました。イスラエル王国の指導者のこの神信頼が、国を正しく導いたのです。詩編23篇は彼の晩年の歌だと思われます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない(1節)」と歌っています。多くの苦しみと神の助けを経験してきたからこそ語り得た言葉だと言えるでしょう。どんな苦しいときでも、あなたの御手が届かないことはなかったとの神への深い信頼が言い表されています。この信頼にわたしたちも導かれたいものです。 UP
2012年8月 
 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 (ヨハネによる福音書6章51〜58節) 

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」

 人が生きていくためにはかてが必要です。この「糧」という言葉は、生きるために必要なものとしての食物をあらわす言葉ですが、それだけではなく、人を支え養うものを広く指して用いられる言葉でもあります。そして聖書はこの糧のことを「パン」という言葉であらわすのです。この「パン」という言葉が用いられるとき、いつも意識されていることがあります。

 それは、生きていく上で必要なすべてのものは、神から来るということ、神が与えてくださるのだということです。つまり、パンとは神から与えられた恵みであり、賜物であり、人間生活に必要なすべてを集約した言葉にほかなりません。

 そして今聖書は、このパンの恵みを一層輝かせる大いなる賜物について語るのです。ヨハネ福音書6章51節を聴きましょう。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と。ここで「その人は永遠に生きる」と言われているだけでなく、「世を生かすためのわたしの肉」と言われていることに注意したいと思います。

 そうです。このパンはわたしを生かすと共に、他者をも生かす、すなわち他者に仕えるパンであるのだということです。さらに53節では「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われており、わたしたちの信仰の決断としてパンを食することが促されています。

 実に主イエス・キリストは、このことのために、すなわち命のパンをわたしたちに差し出すために、天から降って来られました。肉をまとい、その肉において苦しみを受けられ、これを裂かれたのです。この命と恵みのパンを心から受け、この恵みにすべてを傾けて応えていこうではありませんか。 UP
2012年7月 
 「わたしは必ずあなたと共にいる」   (出エジプト記3章12節)  

 今から3300年ほど前、エジプトに住む大勢のヘブライ人たち(のちのイスラエル民族)が大変苦しい生活を強いられていた頃、モーセはあるヘブライ人の家庭に生まれました。神の救いの御業が始まったのです。

 モーセが生まれたとき、状況はまさに最悪でした。どんどん人数が増えていくヘブライ人を恐れたエジプト王が「その家庭に生まれた男の子をすべてナイル川に放り込んで殺してしまえ」と命じたからです。生まれて間もないモーセに危機が迫りました。母親は三ヶ月間何とか隠し通しますが、泣き声が大きくなってきたのでもう隠しきれないと思い、最後の手段に打って出ます。パピルスでつくった籠に赤ちゃんを入れ、ナイル川にそっと流したのです。

 このときの母親の心境は察するに余りあります。しかしこの母親は信仰深い人でした。生きてほしいとの切なる願いをこめ、神の御手にすべてを委ねて、小さな小さな籠を見送ったに違いありません。出エジプトは、一人の女性のこのような神への強い信頼から始まったことを、まず心にとめたいと思います。  さて神の御手に守られた小さな籠は無事発見され、モーセはエジプトの王女の子として育てられることになりました。ですからずっとそのままであれば、モーセの将来は約束されバラ色だったはずです。しかし神のご計画はそれとは全く別のところにありました。

 ある日、モーセは同胞のヘブライ人を助けるために一人のエジプト人を殺してしまいます。そのため彼はエジプトを逃れてミディアン地方にたどりつき、ある家庭に身を寄せることになりました。そしてこの地で神の召しを受けたのです。神は言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と。

 思いがけなく神の御声を聞き、「わたしには荷が重すぎます」とたじろぐモーセでしたが、、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束してくださいました。その後もモーセは困難な道を進むことになりますが、この神の言葉が常に彼を支えたのです。わたしたちの希望もここにあります。
UP
 
2012年6月 
 「ノアは神と共に歩んだ」 (創世記6章9節)

  旧約聖書のノアの物語は、洪水や箱船のことが出てくる物語としてよく知られています。なぜこのような物語が聖書に記されているのでしょうか。一つ考えられることは古代人が経験した未曾有の大洪水の記憶です。実際メソポタミア文明が起こったチグリス川、ユーフラテス川一帯に大洪水の痕跡が見つかっています。おそらく洪水を経験した人たちが、すべてを一掃するほどの洪水がなぜ起こったのかという思いを抱き、この物語を生み出したのでしょう。

 紀元前六世紀、国破れてバビロニアに捕らえ移された南王国イスラエルの主だった人々は、その地で洪水物語と出会いました。乾燥地帯に住んでいた彼らにとってこの物語は衝撃的なものだったに違いありません。そして彼らはこの物語の中に天地を創造された神の深いご意志を読み取ったのです。

 「この地は神の前に堕落し、不法に満ちて(11節)」と創世記は記しています。神に向けて造られた人間が神に背を向けて自らの欲望に走った結果、地は堕落し、不法が満ちました。ここに洪水が起こされた理由があります。つまり「今あなたがたはどのように生きていますか?」とこの物語は問いかけているのです。

 この物語の希望はノアとその家族の生き方にあります。ノアは不法がますます広がっていく中にあって「神と共に歩んだ(9節)」のです。そのため、彼と彼の家族は神の前に恵みを得、洪水後の新しい世界に希望をつなぐ存在となりました。ノアの物語は今を生きるわたしたちにノアの生き方に倣って生きることの大切さを伝えています。ノアに続くわたしたちでありたいものです。
UP
 
2012年5月 
「初めに、神は天地を創造された」 (創世記1章1節)

  例年になく厳しかった冬の季節がようやく終わり、花の季節を迎えています。自然の営みをわたしたち人間は支配することはできません。自然はときに猛威を振るいます。わたしたちは謙虚になって自然と向き合うことが求められているのではないでしょうか。

 わたしは先日静岡に行って参りましたが、清水港に近い由比(ゆい)という漁港の防波堤に「地震だ、津波だ、さあ逃げろ!」と大書された看板が掲げられているのをこの目で見てある種の衝撃を受けました。この地域の人たちの防災意識の高さ、自然に対する謙虚さのようなものを強く教えられたからです。

 さて聖書は「初めに、神は天地を創造された」と語ります。この聖書の最初の言葉は聖書全体に響き渡っていると共に、時代を貫いてますます大きく響き渡っています。いつの間にか人間はこの御言葉の真意を聞き落としていたと思います。確かに神は造られた人間に対して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1章28節)と言われました。神は人間を信頼してそう言われたのですが、人間は自分たちこそが頂点に立つ者であると思い込んでしまったのです。

  しかし人間は神の創造の御業の最後に造られたことを心しなければなりません。まず陸地や植物や動物などが創造されました。祝福された自然があってはじめて人間は生きることができるということです。ですから人間は自然を意のままに支配しようなどと企ててはなりません。

 それでは人間がなすべきことは何でしょうか。人間は神のかたちに創造されました。つまり神と向き合い、神の御心を聞いて行う存在として造られました。ですから神の御心に対して誠実でなければなりません。もちろん自然に対しても神の御心に沿って向き合うことが求められています。もし神の御心から離れ自分を頂点に立たせてしまうなら、わたしたちにも自然にも幸いはないでしょう。しかし神の御心に聞き、御心に適って生きるなら、わたしたちをも自然をも祝福してくださるに違いありません。すべてにおいて神の御心を求めるわたしたちでありたいものです。
UP
 
2012年4月 
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
                                   (ヨハネによる福音書20章24〜29節)

『信じる者になりなさい』

 主イエスはトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。“信じる者になる”とは、どういうことでしょうか?

 ここに一人の人が現れます。12弟子の一人であるトマスです。彼は復活されたイエスが弟子たちのところに入ってこられたとき、その場に居ませんでした。ほかの弟子たちは「わたしたちはイエスを見た」と彼に言いましたが、彼は信じることができません。自分の目で見なければ、自分の手で触って確かめてみなければ信じられない、それが彼の率直な思いでした。

 トマスについては「疑い深いトマス」とよく言われます。しかしそうでしょうか。むしろ信じたいと強く願っていたのではないかと思われます。彼は証拠を求めていますが、それは信じたいという思いのあらわれだったのではないでしょうか。確信を得ようとしても得られない、ほぼ一週間彼は苦しんだことでしょう。

 そして八日目となります。この日トマスは他の弟子たちの中にいました。そこに再び復活されたイエスが入って来られました。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです。それは、このわたしの手の傷跡は誰がつけたのか?またこのわたしの脇腹の傷跡は誰がつけたのか?との問いかけでもありました。

 “わたしの罪が、他ならずこのわたしの罪が、この方を十字架につけたのだ。その苦しみと死を余すところなく引き受けてくださった方がここにおられる。この方は苦しみを全て受け、死の壁を打ち破って、このわたしに臨んでくださったのだ。これ以上の恵みがあるだろうか?”それが彼の思いだったに違いありません。

 「わたしの主、わたしの神よ」との彼の信仰の告白がそれに続きます。彼は信じることの確かさを、自分自身の中にではなくこの方の中に見出しました。最後まで信じられなかった彼が、信じる者へと変えられたのです。これに続くわたしたちでありたいと思います。 UP
 
2012年3月 
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」                                      (マタイによる福音書7章7節)
 イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。これはマタイ福音書5章から始まる山上の説教の終わりに近いところで語られているみ言葉です。多くを語ってこられた後で「求めなさい」と言われました。確かに何が語られても「求める心」がなければその言葉は通り過ぎてしまうことでしょう。

 それでは「求める心」とは何でしょうか。自分の足りなさを感じるから求める、欠けを感じるから求めるということがあると思います。足りなさや欠けを強く覚えれば覚えるほど、その求め方は強く、切実になるに違いありません。

 しかし問題があります。もし「求める心」が、ただわたしたちの熱意にかかっているとすれば、すぐに結果が出ない時、わたしたちはひどく落胆することになるのではないでしょうか。

 それでは、イエスが「求めなさい。そして、探しなさい。」と言われた真意はどこにあるのでしょうか。注目したいのは「そうすれば、与えられる。…そうすれば、見つかる。」と言われていることです。「与えられるかも知れない。…見つかるかも知れない。」というのではなく、確かな約束として「与えられる。…見つかる。」と言われています。この約束への信頼が大切なのです。

 何をするにしても自分次第ということではなく、わたしたちが自分を知る以上に、わたしたちのことを知っていてくださる方が、最善の道を備えてくださるのだとの信頼の中で求めること、それこそが、より深い意味での「求める心」にほかなりません。この信頼の中で、ぜひあなたも求めはじめてください。 UP

 
2012年2月 
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」   (詩編119編105節)  

 わたしたちは今、先行きを見通すことが難しい不安な時代を生きています。将来を予測する情報がこれほど飛び交っている時代はかつてなかったはずであるにもかかわらず、確かな道筋がなかなか見えてきません。

 しかし果たしてこの状況は今の時代だけのことでしょうか。遠い昔の人たちもまた、情報を伝えるメディアがごく限られている中で、わたしたちの想像を超えた不安や怖れを抱いていたに違いありません。旧約聖書の時代の人々も同様でした。詩編119篇を歌った詩人もまた言葉では表せないほどの不安や怖れの中で、生きることの全てを託すことができる揺るぎない拠り所を切実に求めていました。

 ではこの詩人にとって真に依り頼むべきものとは何であったのでしょうか。それは神の御言葉にありました。119篇105節のところでこの人は次のように言い表しています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」と。短い言葉ですがこの中にこの詩人の思いのすべてが凝縮していると言うことができるでしょう。

 「神よ、わたしの人生はよいときばかりでなく、最悪と思われるような困難や苦しみを味わうときもありました。けれどもあなたはどのようなときにあってもわたしを見離すことなく、御言葉によってわたしを慰め、生きる希望を与え続けてくださいました。神よ、あなたの御言葉こそ、わたしの道を照らす真実な光です」これがこの詩人の思いです。揺るぎない拠り所が明確に言いあらわされています。

 そうです。わたしたちが進む道はすでに御言葉の光によって照らされています。この光の中に身を置いて共に歩んで参りましょう。  UP 
 
2012年1月 
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。    (マルコによる福音書1章14〜20 )

 『 時は満ち、神の国は近づいた 』

イエスはガリラヤでの宣教のはじめに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ここには今がなんどき何時かを告げる力強い語りかけがあります。そうです。約束の時が満ちて、神の国すなわち神の恵みのご支配が最接近していると告げられたのです。ですから今このとき重要なことは、わたしたちの用意がどれくらい整っているかではなく、神においては今やすべてが整っていることを悟って悔い改めること、そして福音を信じることにほかなりません。

 16節以下には、この日福音を信じて新たな旅立ちを始めた四人の人たちのことが記されています。すなわちシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネです。イエスは漁師であったこれら四人の生活のただ中に入ってこられました。注目したいことは彼らに対して注がれたイエスのまなざしです。「御覧になった(16節)」「御覧になると(19節)」と記されていますが、このときイエスはただ漫然と彼らを見られたのではありません。彼らがこれまでどのような人生を生きてきたのかをも含めて、彼らのことをしっかり見つめられました。つまり彼ら一人一人に心を届かせつつ、ちょうど羊飼いが一匹一匹の羊の名前を呼ぶように「名」を呼ばれたのです。

 このときイエスは実際に彼ら一人一人の名前を呼ばれたに違いありません。彼らは驚いたことでしょう。名を呼ばれるとは、イエスによってもたらされた神の国がまさにその人のところに訪れたことを意味するからです。十字架と復活の主のまなざしが、紛れもなくその人に向けられているということでもあります。「時は満ち、神の国は近づいた」のです。

 今や神の時は満ちました。今こそ恵みの時です。なすべきことは四人の人たちが示しています。「二人はすぐに網を捨てて従った(18節)」「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った(20節)」とあります。彼らに注がれたのと全く同じまなざしが、今わたしたち一人一人に向けられています。 UP 
 
2011年12月  
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」     」 (ルカによる福音書2章11節)
 
 救い主の到来を待ち望むアドベントに入りました。この年は東日本大震災により、今なお困難な生活を強いられている人々が少なくありません。また世界に目を向けても、多くの人々の痛みと悲しみがあることを覚えさせられます。このような中でわたしたちはクリスマスを迎えようとしています。クリスマスとは神が人となられた、そして最も遠い方が最も近い方となられた出来事です。

 今二つのクリスマス物語に注目したいと思います。マタイ福音書が伝えている遠い国の博士たちの物語と、ルカ福音書が伝えている羊飼いたちの物語です。もちろんこれに先だってマリアとヨセフの物語があるのですが、その知らせを受け取った人々として、聖書は博士たちと羊飼いたちのことを記しているのです。一方は遠い国の人たちであり、もう一方はこの出来事のすぐ近くにいた人たちでした。

 羊飼いたちはイエスが生まれたベツレヘム近郊の荒れ野で羊の番をしていたひとたちです。ですから天使たちが「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げたとき、すぐに駆けつけ、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。一方博士たちはベツレヘムから東に二千キロほども離れたところにいた外国人です。しかし彼らにも、神が人となられたという驚くべき恵みの知らせが届けられました。星を調べることが彼らの仕事でしたが、喜びの知らせはまさにその星によってもたらされました。

 彼らは直ちに旅立ちます。羊飼いたちよりも一ヶ月ほども早く、この恵みの場所に向けて旅立った人たちがいたということです。彼らは幼子がいる場所で星が止まったとき、その星を見て喜びにあふれたと記されています。そして幼子を拝み、黄金、乳香、没薬をささげました。救い主は近くにいる人たちにも、そして遠く隔てられている人たちにも訪れてくださる。ここにわたしたちの希望があります。    UP 
2011年11月  
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」 (ヨハネ12章12節)
 
  わたしたちは経験的に人を愛するということの難しさを知っていると思います。愛が切実に必要とされている時代であるにもかかわらず、愛を本当の意味で届かせることは容易ではありません。わたしたちは真実の愛を何処に求めたらよいのでしょうか。

 イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。これはイエスがわたしたちに与えられた唯一のおきて掟です。わたしたちは普段掟というものをあまり意識しないと思います。しかし実はわたしたちは様々な姿をした掟に縛られています。人を愛する思いはあっても目に見えない掟(おきて)が働いて自分を抑制したり、規制したりするのです。一方イエスのそれは、ご自身の愛によって隔ての壁を打ち砕く掟にほかなりません。

 このイエスが与えられた掟を物語っているのがルカ福音書10章25〜37節に記されている「よきサマリア人のたとえ」です。一人の瀕死の傷を負ったユダヤ人の旅人の傍(かたわ)らを祭司とレビ人とサマリア人が通りかかりました。しかしユダヤ人であり宗教的指導者である祭司とレビ人はその人を無視して通り過ぎてしまいます。しかしその後通りかかったサマリア人は、この旅人に対して何のためらいもなく考え得る限りの介護をしました。当時サマリア人はユダヤ人からさげす蔑(さげす)まれ、嫌われていたにもかかわらずです。

 このサマリア人とは誰のことでしょうか。わたしたちはイエスが罪ある者のために身をささげて、十字架の死を遂げてくださったことを知っています。「わたしがあなたがたを愛したように」とはそのことを指しています。この愛こそ、あらゆる垣根を取り除き、すべてを包む愛にほかなりません。イエスはこの愛の故に「互いに愛し合いなさい」と、唯一つのおきて掟をわたしたちに与えられました。イエスの真実な愛に支えられつつ、このおきて掟に生きるわたしたちでありたいと思います。    UP 
2011年10月  
「わたしは道であり、真理であり、命である。」 (ヨハネ14章6節)
 
  今月わたしたちに与えられている聖書の御言葉は、十字架を前にしてイエスが弟子たちに言われた「わたしは道であり、真理であり、命である」です。これまでずっとイエスと共に歩んできた弟子たちでしたが、彼らの中から裏切る者が現れ、イエスとの別れのときが近いことを知って、激しく動揺し、道に迷う羊のようになってしまいました。これから自分たちはどうなるのだろうという不安で一杯だったに違いありません。

 イエスはそのような弟子たちの心のうちを読み取って、彼らに今必要な言葉を与えられました。すなわち「道」「真理」「命」という非常に重要な言葉を三つ重ねてご自身をお示しになったのです。「道」とは神に向かう道であり、「真理」とは罪の赦しをもたらす真理であり、「命」とは永遠に神と共にある命を意味します。そしてイエスは、この三つがご自身の中で揺るぎなく一つに結びついているのだと明言されました。

 そのことが真実であることは、イエスがすべてを傾けて十字架への道を進み行かれたことの中に示されています。この方は死に至るまで従順を貫かれました。そして三日目に復活されたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」。どのようなときもこの御言葉に聞き、この御言葉に信頼しつつ歩ませてくださいと祈り求めましょう。    UP 
2011年9月 
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 (マタイによる福音書16章13節〜20節)

 わたしは信仰を必要とするほど弱い人間ではないという声を聞くことがあります。信ずるということがわたしにとって切実なこととして感じられないと言われる方もあるかも知れません。しかしもし信仰を、自分自身に確信が持てない弱い人が求めるものというふうに考えるなら、それは信仰とは何であるかを誤解しています。

 マタイによる福音書16章13節以下には、わたしたちの確かな土台としての信仰が言いあらわされています。主イエスは迫り来るご自身の十字架の時を前にして弟子たちにお尋ねになりました。場所はフィリポ・カイサリア地方です。そこは偶像神への礼拝と皇帝を神とする政治宗教が混在しているようなところでしたが、イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」と弟子たちに問いかけられました。弟子たち一人一人が、自分という存在をかけてこの問いに答えることを求められたのです。

 このとき、シモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。「生ける神の子です」という言葉に注目しましょう。「生ける」という言い方は「死せる」という言葉を否定するものです。もしこの方が人々の願望を具現しただけの、人の手によってつくられた神の子であるに過ぎないのであれば、それは「生ける神の子」ではありません。しかし今ペトロはこの方を生ける方として言いあらわすのです。「あなたこそ、死に勝利して朽ちることのない命を与えてくださる方です」…と。

 そうです。この告白こそがわたしたちの信仰の核心であり、わたしたちの 人生の揺るがない土台にほかなりません。この時主イエスはペトロに対して「あなたはペトロ(ペトロス)。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。最後にこの「岩」という言葉に注目しましょう。ペトロはこの後のところでも明らかになりますように決して完全な人ではなく、熱しやすいが冷めやく壊れやすい存在に過ぎません。しかし彼は、自分自身の中にではなく、主イエスその方の中に揺るがないものをとらえたのです。この方こそ「生ける神の子」との信仰に導かれ、確固とした人生の立ちどころを得ました。詩編46編2節はこう言いあらわしています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちのとりで砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と。わたしたちもここにこそ立ちたいものです。    UP 
2011年8月 
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 (マタイによる福音書13章24節〜30節)

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 (マタイによる福音書13章36節〜40節)

『神の子とされる希望』

 わたしたちは聖書を読んでいて「なぜこんなことが書かれているのだろう?」という思いを抱くことがあるのではないでしょうか。今日与えられているマタイによる福音書13章24節以下もそのような箇所かも知れません。

 このマタイだけが伝えている「たとえ」は、恐らくこの福音書の背後にある教会の事情を映し出しているでしょう。教会はひたすら成長を重ねていくときもありますが、様々な困難を味わうときもあります。この「毒麦のたとえ」は正にそのことと深い関わりがあるのではないでしょうか。  さてこの毒麦のたとえでは「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた(24節)」とありますように、種ははじめから畑すなわち良い土地に蒔かれています。最初はどれも一様に成長しているかに思えたのに、実りの頃になって異なるものの混在が明らかになったのです。

 毒麦は一種の雑草ですが、苗がまだ若いうちは本物の麦との区別が難しいということです。しかし穂が出てくる頃になるとその違いが分かるようになり、最終的には収穫・脱穀までした後、大きな盆に広げられて選り分けられると言われています。色の違いがはっきりしているからです。

 さてマタイの教会はこの異なるものの混在について深刻に悩み、どうすべきかを切実に求めておりました。一方に「では、行って抜き集めておきましょうか」という声があります。悪いものは早く取り除いて良い麦だけの教会にすべきであるという考え方です。しかし果たして悪い麦だけを抜いて集めるということができるのでしょうか。この問いはわたしたちも投げかけられていると思います。実際畑では麦と毒麦が絡み合っていて、毒麦を抜き取るつもりで麦までが引き抜かれてしまうということがあるようです。注意しているつもりでも間違ってしまう危うさがここに指摘されています。

 主イエスはこう言われました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい(29、30節)」と。わたしたちは思い違いや早合点をしがちです。抜いてはならないものまで抜いてしまうかも知れません。その時が来れば、神様がすべてを曇りなく明らかにしてくださるのです。一切は神様の御手の中にあります。ですから、むしろわたしたちは神様の恵みの選びに信頼いたしましょう。37〜38節の毒麦のたとえの説明の中に「畑は世界、良い種は御国の子ら」とあります。ここで示唆されているのは神の救いの御心の深さと広さです。そうです。神はわたしたちの世に御子キリストを遣わしてくださいました。この方によって御国の子すなわち神の子らを選び、御許へと呼び集めてくださるのです。ここにわたしたちの揺り動かされることのない希望があります。    UP 
 
2011年7月 
「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカによる福音書10章37節)

普段わたしたちは「隣人」をどれくらい意識しているでしょうか。隣人とは文字通り隣りにいる人(他者)のことです。隣りにいる人なら沢山いると思われるかも知れません。しかしその中にはっきり「隣人」として意識している人がいるでしょうか。

 聖書に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉があります。旧約聖書の律法の書の一つであるレビ記19章18節の御言葉です。ある律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに尋ねました。この人はその答えを知っているつもりでしたが、自分を正当化しようとして尋ねたのです。

 これに対してイエスが話されたたとえが、よく知られている「よきサマリア人のたとえ」です(ルカ10:30〜35)。あるユダヤ人の旅人が追いはぎに襲われて瀕死の状態で倒れていました。しかしそばを通りかかった同じユダヤ人である祭司とレビ人は通り過ぎて行きました。ところがそこを通りかかった一人のサマリア人は、傷つき倒れた旅人に対して考え得る限りの介護をしたのです。当時多くのユダヤ人はサマリア人のことを、異教徒との接触という歴史的な経緯により不浄な人たちと考えていました。つまり彼らの隣人のリストにサマリア人は入っていなかったのです。ユダヤ人は、相手がサマリア人というだけで、その人を軽蔑し、決して交わろうとしませんでした。

 ところがこの日そこを通りかかったサマリア人は、何のためらいもなくユダヤ人である旅人に近づき、その人の傍らに身を置いて、本当に行き届いた介護をしたのです。イエスはこのたとえを話された後、律法の専門家に対して「行って、あなたも同じようにしなさい(37節)」と言われました。十字架の愛をもって隔ての壁を打ち破ってくださった方がそう言われたのです。十字架の愛がわたしたちを隣人との出会いへと導き入れてくださるに違いありません。    UP 
 
2011年6月 
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」 (ヨハネによる福音書15章5節)


 わたしたちは日々の歩みの中で、生きていくためにはしっかりした拠り所が必要だということにを、経験的に気づいていると思います。想定外の事態に遭遇したときはもちろん、想定内の事態の場合でも、これに適切に対処するということは、実は容易ではないからです。

 今聖書は、わたしたちが生きていく上でぜひ必要な拠り所に触れて、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語っています。イエスはご自分をぶどうの木に、弟子たちをその枝にたとえられました。そして「わたしにつながっていなさい(4節)」と言われたのです。

 実はこのとき弟子たちは、自分たちの先生であるイエスの十字架の死が避けられないことを知らされて大変大きな衝撃を受けていました。彼らにとってまさに想定外の事態が生じようとしていたからです。彼らの不安はこの上なく高まっておりました。生きていくための拠り所が失われてしまうという不安です。

 これに対してイエスは「心を騒がせるな(14章1節、27節)」と言われました。そして「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られたのです。厳密に言えばイエスがぶどうの幹で、弟子たちはその幹につながっている枝であるということになります。ぶどうの枝が幹にしっかりつながっていることで成長し、やがて実を結ぶことができるように、あなたがたもわたしにしっかりつながっていれば、豊かに実を結ぶことができますと言われたのです。

 では「しっかりつながっている」とはどういうことでしょうか。それは主イエスを拠り所とすることにおいて揺るぎないことであり、どのようなときにあっても、主の御言葉から慰めと力を得て生きることにほかなりません。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」ここにわたしたちを生かし、豊かな実りをもたらす確かな拠り所があります。      UP 
2011年5月
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネによる福音書20章24〜31節)

『信じる者になりなさい』

トマスは最初古い自分に支配されていました。先に復活の主が弟子たちのところにおいでになられたとき、彼はそこに居合わせず、その後他の弟子たちから「主にお会いした」と聞いても、彼の心は閉ざされたままだったのです。ヨハネ福音書はこのトマスを、いわば例外者として書き記しているのでしょうか。そうではありません。今この福音書は、実に鋭く深くわたしたちの心に迫り、わたしたちの中に隠されている部分に光を当てようとしているのではないでしょうか。トマスの心はわたしたちの心です。

 主イエスはトマスの心の底を見抜いておられます。彼が「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ…わたしは決して信じない(25節)」と言い張るその心の内をご存じなのです。そしてそれを言い当てられます。この時トマスは、自分の心の底にある醜さ、信じることのできない自分を、さらには罪の闇に捕らえられている自分を思い知らされました。そしてなおも主が「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(27節)」と言われたとき、主が変わらない愛をもって彼に強く迫ってくださったことを深く知りました。ほかならず「あなたの指をここに!」「あなたの手を…わたしのわき腹に!」とのみ声を聴いたとき、彼は打ち砕かれ、新しく生まれたのです。彼は、ただしるしによって、すなわち見て信じる者から、見ないで信じる者へと変えられました。この時彼が他の仲間たちと一緒だったことも見逃せません。

 彼はついに「わたしの主、わたしの神よ(28節)」との曇りのない信仰の告白へと導かれました。遅れてやってきた彼もまた 主の変わらない愛と真実に捉えられたのです。そ してまた生ける主は、心に戸惑いやおそれを抱え 持っているわたしたちのところにもおとずれてく ださいます。「信じる者になりなさい」と語りか けてくださるのです。すべてを開いて主の真実に お応えしようではありませんか。    UP 

2011年4月
 「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』」(ヨハネ20章14〜15節)

 『 主はよみがえられた 』

 主の復活を記念する朝を迎えました。この日マグダラのマリアと弟子たち、そしてトマスが出会ったように、わたしたちも復活の主と出会い、限りない希望へと導かれたいと思います。

 今、マグダラのマリアに思いを向けましょう。1節に「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」とあります。イエスの埋葬の際、安息日が迫っていた関係で、彼女は納得ゆくまでなきがら亡骸を整えることができませんでした。深い悲しみと、まだなすべきことが残されているという思いが、彼女をこんなにも早い時間に墓に向かわせたのでしょう。

 驚くべきことに、このとき彼女が目撃したものは、墓の入り口をふさいでいるはずの大きな石が取り除かれていたという事実でした。これには一つの象徴的な意味合いがこめられています。すなわち墓の向こう側と墓のこちら側とを隔てている壁が、今や取り除かれたのだということです。そうです。神の御支配は死せる者の世界(よ陰み府)にまで及びました。

 ところが11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とありますように、依然として彼女は悲しみの淵にあり、涙するばかりであったことが分かります。彼女にとってイエスは依然として死の彼方の存在でありました。

 しかし彼女のその涙の先に、大いなる光が差し込みます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか(15節)」との復活の主のお言葉がそれです。「だれを捜しているのか」この極めて直接的な問いは、彼女だけでなくそのままわたしたちにも差し向けられています。マリアはその後の対話を経て「わたしは主を見ました」(18節)との信仰の告白へと導かれました。

 そうです。この方こそ、わたしたちの一切の罪を負い、贖いの死を遂げ、死に勝利して復活し、天にあげられてすべてのものの主となられた方にほかなりません。イエスはよみがえられました。死の壁は取り除かれたのです。復活の主はわたしたちにも「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけてくださいます。ここにわたしたちの揺るがない希望があります。     UP 
2011年3月
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 (ルカによる福音書10:25〜37 ) UP

『行ってあなたも同じようにしなさい。』

 「よきサマリア人のたとえ」として知られているこの箇所は、ある律法の専門家が「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と尋ねるところから始まっています。イエスはこれに対して「律法には何と書いてあるか?」と問い返され、彼自身に答えさせておられます。そして彼の答えは主ご自身が「正しい答えだ(28節)」と言われたように、誠に申し分のないものでした。 ここで問題となるのは「イエスを試そうとして(25節)」さらに「自分を正当化しようとして(29節)」と言われているこの人の態度です。この「自分を正当化する」という言葉は、直訳すれば「自分を義とする」となります。つまり彼は自らを空しくして、心の底から主イエスその方に聞き従おうとしたのではなく、自分が他の人より優っていることを確証する目的で質問したわけです。しかしそれでは神の国の業とはなりません。

 おそらく彼はイエスが「律法には何と書いてあるか?」と聞き返されることを予期して質問したのでしょう。「では、わたしの隣人とはだれですか?」との彼の二つ目の問いにも迷いはありません。この問いの背後にあるものに注目しましょう。

 律法の専門家である彼はこの時「隣人」という言葉を二度用いました。しかし当時、正統的なユダヤ教において「隣人」と言われる場合、それは「同族」や「同胞」を前提としていたのです。つまり一定の枠の中で意識されている隣人に過ぎませんでした。したがって彼は「わたしの隣人とはだれですか?」と問うてはいますが、実は彼自身の中ですでに答えを出していたと言えます。イエスが何故「隣人とは誰々のことである」とは答えられず「サマリア人のたとえ」をもって答えられたのか、その理由がここにあります。律法に通じていたはずの彼にとって、イエスのこの返答は予期に反するものだったに違いありません。

 主が語られたたとえを聴きましょう。祭司もレビ人も「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らがなぜ瀕死の傷を負った人の介護をためらったのかについて、わたしたちは詳細を知ることはできません。ただ分かっていることは、彼らもまた隣人とはだれなのかをめぐる自分たちなりの答えを出してしまっているということです。今日わたしたちも、この切実でしかも極めて今日的な問いの前に立たされていると言えないでしょうか。わたしたちもまた狭い枠の中で答えを出してしまってはいないかと問い正される思いがします。

 一人の旅人が、祭司とレビ人が通り過ぎて行った後、考え得る限りの介護をしました。この人はサマリア人であり、サマリアとユダヤの地を行き来していた商人だと思われます。歴史的な経緯からサマリア人とユダヤ人は互いに強い対抗意識を持っていました。ところがほかならずサマリア人であるその人が、明らかにユダヤ人と思われる瀕死の傷を負った人に近寄って、実に行き届いた介護をしたのです。そこには何の予断もためらいもありませんでした。 「行って、あなたも同じようにしなさい(37節)」と主は言われます。何の前提も持ち込むことなく十字架を負い「義と聖と贖いとなられた(1コリント1:30)」方がそう言われるのです。心して、このみ言葉を聞きたいと思います。      UP 
2011年2月
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。  (マタイ7章7〜8節)


 わたしたちはたくさんの願い事を持っていると思います。しかしそれが本当の求めになっているでしょうかと聖書は問いかけるのです。
 マタイによる福音書によれば、イエスは山に登られ集まってきた弟子たちに多くのことを教えられました。そして最後に近いところで「求めなさい。そうすれば、与えられる…」と言われたのです。「与えられるかも知れない」「多分与えられるでしょう」ではなく、「与えられます」と確かな約束として語られました。
 ではイエスは、「どんな願い事でもそのまま叶えられますよ」と言われたのでしょうか。そうでないことは、すぐ次の箇所で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と言われたことからも分かります。「狭い門」という言葉が、すぐ後で「命に通じる門」と言い換えられていることに注目したいと思います。そうです。イエスはわたしたちに多くの切実な願いがあることをご存じの上で、その願いが命を受ける真実な求めになるまで祈り続けなさいと教えてくださいました。
 祈りとは、わたしたちの思いを神に向けることです。祈ることで、わたしたちが真に求めるべきものが何であるかが示されるでしょう。わたしたちに本当に必要なものを神はご存じだからです。その深い信頼の中で祈りをささげるとき、わたしたちは人知を遙かに超えた恵みに与ることになるでしょう。
 「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」も同じ意味です。ですから求める前からあきらめてしまったり、自分なりの結論を出してしまったりしないで探し求め、門をたたきたいと思います。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない(11節)」わたしたちの希望がここにあります。    UP 
2011年1月
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイによる福音書3章13節〜17節) UP


『神の御心に適う方』
 イエスはなぜ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられたのでしょうか。通常は洗礼を授ける者が受ける者よりも優位に立ちます。しかしこの福音書の立場は明確です。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに…」とヨハネが語っていますように、ヨハネを優位とするどのような考え方も彼自身の発言によって完全に斥けられています。

 わたしたちはこの方が罪を知らない方であることを知っています。ヨハネ自身も明言していますように、この方の受洗は罪の赦しを得させる洗礼ではありません。そのことははっきりしています。ところが、罪を知らないその方が確かに水の洗いを受けられたのです。わたしたちが洗礼を受ける際にひざまづくその同じ場所に、イエスは身を置いてくださいました。

 そうです。イエスは罪の赦しを必要としているわたしたちから遠く離れて立たれたのではなく、わたしたち罪人の側に身を置くことを選び取ってくださいました。イエスは洗礼を受けられたとき、天が開いて神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になりました。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天からの声を聞かれたのです。

 まことにイエスは神の御心に適う方でした。神の霊が鳩のようにこの方に降って来たのは、イザヤ書42章のはじめの「主の僕の歌」とつながりがあります。そこには「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ…(1節)」と記されています。イザヤが告げた僕は神に支持された苦難を負う僕にほかなりません。そのようにイエスの召しも苦難の十字架を負うことでした。鳩のように降った霊はイエスこそ苦難の僕として召し出された方であることをあらわしています。

 わたしたちの希望はこの方を置いてほかにありません。この方は神の御心である十字架の道を進まれ、死に至るまで従順を貫かれました。この方の光に照らし出されて歩み始めたいものです。    UP 
  
  
 

日本キリスト教会札幌琴似教会

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牧師 久野真一郎

伝道開始 1930年  教会創立 1949年7月24日