聖書からのメッセージ

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 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
 (ヨハネによる福音書15章5節)
  何が待ち受けているとしても、わたしたちが生きる希望を失わないためには、わたしたちの生を根底から支える揺るぎない土台が必要です。どれほど立派そうに見える家でも、もし土台がしっかりしていなければ、嵐が来たとき倒れてしまいます。もしわたしたちの日々の歩みが、砂の上に建てた家のようであったとしたら、思いがけない逆風が襲ってきたとき、耐えることは出来ないでしょう。主イエスは十字架のときを前にして、動揺を隠せない弟子たちに対して、彼らとの結びつきが不変であることを「たとえ」によって話してくださいました。それが「ぶどうの木と枝のたとえ」です。

 主イエスは十字架に死なれ、復活して天に昇り、肉の姿としては去って行かれますが、十字架において示された愛は不変であり、この方に心傾ける者たちとの結びつきは、弱められるどころかむしろ強められるのです。ぶどうの木の幹にしっかりつながった枝が成長し、やがて多くの実を結ぶように、「わたしにつながっていなさい」「わたしの愛にとどまっていなさい」と主イエスは呼びかけていてくださいます。

 主イエスの御声を聴き分けつつ、生きることの確かな土台をここに得て生きるわたしたちでありたいものです。
  (札幌琴似教会牧師 久野真一郎)
 
2019年     
5月  ヨハネによる福音書10章11節
4月  ヨハネによる福音書20:1〜18
3月  ヨハネによる福音書20章27節  
1・2月  マタイによる福音書7章7〜8節

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2019年5月 

 「わたしは良い羊飼いである」 (ヨハネによる福音書10章11節)     
 主イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われました。原文では「わたしは」が強調されています。「このわたしが」「このわたしこそが」と言われたのです。その意図はどこにあるのでしょうか。

 何時の時代も本物と偽物を見分けることは難しいものです。本物でない人が「わたしは偽物です」などと言ったりはしません。ですからつい惑わされて、偽物について行ったりするのです。主イエスは、そのような人々の現実をつぶさにご覧になって、「ほかでもない、このわたしこそが…」と言われたのではないでしょうか。

 偽物の羊飼いは、羊を自分の私有物としてしか見ていません。彼らの目当ては、羊によって自分たちの益を増す、ただそのことです。甘い言葉に惑わされた羊たちは、結局のところ彼らの意のままとされ、命さえ危うくすることになるでしょう。

  だからこそ主イエスは「わたしこそが」と語気を強めて、人々の注意を喚起されたに違いありません。主イエスは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる(11節)」と言われました。偽物の羊飼いは、果たして羊のために自分の命を差し出すでしょうか。一方主イエスは「わたしは羊のために命を捨てる(15節)」と言われ、事実十字架の苦しみと死を御自身に引き受けられました。この方の御声を聞き分け、この方に従うわたしたちでありたいものです。
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2019年4月 

 『 主はよみがえられた 』  ヨハネによる福音書20:1〜18       
 主の復活を記念する朝を迎えました。この日マグダラのマリアと弟子たち、そしてトマスが出会ったように、わたしたちも復活の主と出会い、限りない希望へと導かれたいと思います。

 今、マグダラのマリアに思いを向けましょう。1節に「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」とあります。イエスの埋葬の際、安息日が迫っていた関係で、彼女は納得ゆくまで亡骸を整えることができませんでした。深い悲しみと、まだなすべきことが残されているという思いが、彼女をこんなにも早い時間に墓に向かわせたのでしょう。

 驚くべきことに、このとき彼女が目撃したものは、墓の入り口をふさいでいるはずの大きな石が取り除かれていたという事実でした。これには一つの象徴的な意味合いがこめられています。すなわち墓の向こう側と墓のこちら側とを隔てている壁が、今や取り除かれたのだということです。そうです。神の御支配は死せる者の世界(陰府)にまで及びました。

 ところが11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とありますように、依然として彼女は悲しみの淵にあり、涙するばかりであったことが分かります。彼女にとってイエスは依然として死の彼方の存在でありました。

 しかし彼女のその涙の先に、大いなる光が差し込みます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか(15節)」との復活の主のお言葉がそれです。「だれを捜しているのか」この極めて直接的な問いは、彼女だけでなくそのままわたしたちにも差し向けられています。マリアはその後の対話を経て「わたしは主を見ました」(18節)との信仰の告白へと導かれました。

 そうです。この方こそ、わたしたちの一切の罪を負い、贖いの死を遂げ、死に勝利して復活し、天にあげられてすべてのものの主となられた方にほかなりません。イエスはよみがえられました。死の壁は取り除かれたのです。復活の主はわたしたちにも「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけてくださいます。ここにわたしたちの揺るがない希望があります。 
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2019年3月 

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。(ヨハネによる福音書20章24節〜28節)      
  「信じる者になりなさい」
ヨハネによる福音書の最後にトマスという人が登場します。彼は他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」と聞いたとき、自分の目でその証拠を確かめるまでは信じられないと言った人としてよく知られています。そのトマスの身に、何が起こったのでしょうか。
 トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ…わたしは決して信じない(25節)」と申しました。しかし、このとき主イエスは、彼の心の底に何があるのかを見ておられたのです。主はこう言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい(27節)」と。 このときトマスは、自分の心の底にある醜さ、そして罪の闇に捕らえられている自分を思い知らされると共に、主イエスが変わることのない愛をもって強く迫ってくださったのだと知ることができました。そうです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい!」とのみ声が、彼の堅い心の壁を打ち砕き、見て信じる者から見ないで信じる者へと変えられたのです。
 彼はついに「わたしの主、わたしの神よ(28節)」と、心からの信仰を言い表します。他の弟子より遅れてやってきた彼でしたが、主イエスの変わることのない愛と真実に捉えられたのです。主イエスは、心に戸惑いやおそれを抱え持っているわたしたちにも、「信じる者になりなさい」と語りかけてくださいます。トマスに続くわたしたちでありたいものです。 
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2019年1-2月 

  「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」         (マタイ7章7〜8節)  
「求めなさい。そうすれば、与えられる…」これは、わたしたちが主イエスの御名によって神に祈り求めるならば、必ず応えてくださるとの約束の御言葉です。けれどもその意味は、祈りを重ねればどのような願いでもそのまま叶えられるということではありません。どんなに祈っても聞かれない…ということがあるでしょう。確かに苦しいことです。祈りは聞かれていないのでしょうか。

 いいえ、祈りは聞かれています。それが神への深い信頼に支えられた願いであるならば、その祈りは聞かれているのだということを、この御言葉は教えているのです。またこの御言葉は、神が最善の道を備えてくださることを信じて祈ることを求めています。主イエス御自身、十字架を前にして「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに(26章39節)。」と祈られました。
 わたしたちの人生には喜びのときも悲しみのときもあります。けれどもその一つ一つに神の御心が置かれていることに信頼して、祈りをささげるわたしたちでありたいと思います。「そうすれば、与えられる。…そうすれば、見つかる。…そうすれば、開かれる」との約束を信じて…。
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2019年11月

  

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日本キリスト教会札幌琴似教会

〒063−0842 札幌市西区八軒2条西1丁目3−1
牧師 久野真一郎

伝道開始 1930年  教会創立 1949年7月24日