聖書からのメッセージ

トップページへ 
「わたしは必ずあなたと共にいる」      (出エジプト記3章12節)
  その頃、イスラエルの民はファラオ(エジプトの王)のもとで苦役の日々を重ねていました。モーセはそのような苦役の民の中に生を受けましたが、男児殺害の命令が出されたので、母親は幼子をパピルスで作った籠に入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いたのです。そして幼子はエジプトの王女に見つけられ、ファラオの子として育てられることとなりました。神の導きの不思議さを思わされます。

 モーセが成人になった頃、神は苦役の民を救うためにモーセを召されます。「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。エジプトで苦しんでいるわたしの民イスラエルの人々を連れ出しなさい」と。しかし彼は、「わたしには荷が重すぎます」と答えます。しかし、たじろぐモーセに対して神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われたのです。これは、どれほどの困難が襲いかかってくるとしても、あなたは一人ではない…との神の約束の言葉でした。

 そして、神が与えられた十の災いにより、ついにファラオはイスラエルの民がエジプトを出て行くことを許します。ところが心変わりをしたファラオは、出て行った彼らを連れ戻そうと追いかけてきたのです。行く手には海があります。万事休すと思われました。

 しかしそのとき、神の御声があり、モーセは御声のままに杖を高く上げます。すると海が二つに分かれ、人々は向こう岸まで渡ることが出来ました。葦の海の奇跡と言われています。「わたしは必ずあなたと共にいる」との神の約束に偽りはありませんでした。その後も長く苦しい荒れ野の旅路が続きましたが、そのすべての行程を神は守ってくださったのです。  わたしたちもしばしば危機の中に置かれますが、希望を失うことなく、神の約束の御言葉に信頼する者でありたいものです。 
  (札幌琴似教会牧師 久野真一郎)
 
2018年  6月  創世記6章9節 
5月  創世記1章1節
4月  ヨハネの手紙(一)4章16節 
3月  エフェソの信徒への手紙5章8節 
2月  詩編119:105
1月  マルコによる福音書1章14〜20 節

2011年〜2017年はこちら

2009年〜2010年はこちら

2007年〜2008年はこちら
 
2018年6月 
  「ノアは神と共に歩んだ」(創世記6章9節)
 ノアの物語が旧約聖書の最初の書である創世記6章から8章にかけて記されています。ノアは神の御声に従って箱舟を造ります。完成するとやはり神の御声に従って、ノアと三人の息子たち夫婦8人、それに一つがいの動物たちが中に入りました。すると雨が降り出します。聖書には「雨は四十日四十夜降り続き…洪水は四十日間地上を覆った…水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった」と記されています。この衝撃的な物語は何を語っているのでしょうか。

 一つは人間の罪の現実です。人々は自分の中にある罪の破れに気付かないまま、ひたすら繁栄を求めて生きていました。雨が降り始めてからようやく自分たちが破滅に向かって生きてきたことに気付くのです。そうなってしまう前に気付かなかったのは何故でしょうか。それは、彼らが自分たちの心の声に聴くばかりで、神の御声に傾注することを怠ったからです。そのため彼らは、罪の現実に気付いて生き方を正す機会を失ってしまいました。

 この物語が語っているもう一つのことは、箱舟に入って救われ、洪水後の新しい時代の先駆けとなったノアとその家族たちの生き方です。彼らは神の御声を聴く心備えを持つ人たちでした。ですから、雨の気配がないのに、「箱舟を造りなさい」との神の御声を聴くことができたのです。彼らが身を託したこの箱舟は、わたしたちに大切なことを教えています。この箱舟は普通の舟とは違い、オールや帆のような装置を持っていません。つまり自ら進むことはできず、ただ水の上に浮かんでいるだけなのです。それはまさに神を信じ、神の御手に生きることのすべてを委ねている者たちの姿そのものではないでしょうか。「ノアは神と共に歩んだ」、わたしたちの希望もまたここにあります。
         UP
2018年5月 
  「初めに、神は天地を創造された」 (創世記1章1節)
    聖書の最初の書である創世記は、初めに神が天地を創造され、この世界を、最後に造られた人間に支配させられたと記しています。そして長い間その意味を、人間は造られたものの頂点に立つのだから、自然のすべてを意のままに用いてよい、資源は無限にあるのだから…というふうに読み取ってきました。

  けれども今日、資源は枯渇し、自然環境も悪化の速度を増してきています。そのような中にあって、神に望みを置く人たちは、もう一度聖書を読み直し、神の御心を知る必要に迫られました。その結果、造られたすべてのものを支配せよと命じられた神のご意図は、意のままに何をしてもよいということではなく、造られたすべてのものを、神の御心に沿って正しく管理することなのだ…ということに気づかされたのです。

 そうです。この創造物語はわたしたちに、もう一度この世界を創造された神の御心に立ち帰ることを求めています。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった(31節)」との聖書の御言葉を、今心に刻みましょう。この神の御心を離れては、この世界とわたしたちの祝福はありません。わたしたち自身とこの世界が、神の祝福へと立ち帰ることができるように、祈りをささげたいと思います。  
         UP
2018年4月 
  「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)

  わたしたちは普段、「愛する」という言葉をどんなふうに使っているでしょうか。人を愛する、家族を愛する、友人を愛する、平和を愛する…など、いくつもあることでしょう。大切な言葉です。

 昨今、わが子を虐待するというような、ふつうでは考えられないような事件が起こっています。わが子を最初から憎いと思う親はいないはずです。どんな事情があるとしても、わが子に手をかけて命まで危うくすることは出来ないはずだと、わたしたちは思います。しかし現実にそのような悲惨な出来事が続いているのです。
 なぜ、人間の愛は行き詰まったり、憎しみに変わったり、偏ったりするのでしょう。それは人間が本当は弱くて壊れやすい存在だからではないでしょうか。ふとしたことがきっかけで、自分の弱さが顔を出してくる、そして無意識のうちに壊れそうな自分を守ろうとして攻撃的になってしまうのです。
 
このように、わたしたちの中から出てくる愛は、移り変わりやすく、限界と危うさを抱え持っています。ですからわたしたちは、神さまの変わることのない愛に思いを向けなければなりません。ヨハネによる福音書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3章16節)」と語っています。神さまの愛は、独り子であるイエスその方を与えてくださるほどの十字架の愛です。わたしたちの愛は、この神さまの愛によって変えられ、導かれなければなりません。この愛へと導かれたいものです。
         UP
2018年3月 
  「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」   (エフェソの信徒への手紙5章8節)

  今、わたしたちの時代は、多くの痛みを抱えており、分断と対立の壁は高さを増し、明るさよりも暗さが増しているのではないかと思わされるこの頃です。人の心から暖かさを奪う暗闇の支配は、なおしばらく力を振るうでしょう。決してその力をあなど侮ることはできません。

 しかし聖書は、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と告げています。わたしたちの揺るぎない希望が、ここにあります。そうです。キリストは十字架の死と復活によって暗闇の勢力に勝利されました。この方の勝利が逆転されることは決してありません。すなわち、この方の光が射し込むところでは、暗闇の勢力は力を失うしかないのです。

 キリストの光は、人と人とをつなぎ、よい香りを届けます。その光は暖かく、傷を覆い、慰めと希望に満たします。わたしたち、ぜひ、この光に照らされ、「光の子として」共に歩んで参りたいものです。 
         UP
2018年2月 
  「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」  (詩編119編105節)

 わたしたちの人生は、一つの山を越えても、また次の山を越えていかねばなりません。前途には、まだ通ったことのない未経験の道が待ち受けています。確かな道しるべが必要ではないでしょうか。

 詩編119篇は、わたしたちに、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と告げています。この言葉に全詩編、全聖書が集約されていると言っても過言ではありません。今105節は、わたしたちが経験する人生のあらゆる局面を踏まえた上で、神の御言葉こそが「わたしの歩みを照らす灯」であり、このことはこれからも少しも変わることはないと証言するのです。

 聖書には、神から与えられた人生の旅路を走り抜いた人たちのことが多く記されていますが、アブラハムもその一人です。彼は75歳のとき、ただ神の御言葉だけを頼りに、未知の世界に旅立ちました。妻のサライ、甥のロトそして多くの家畜を連れての困難な旅でしたが、神はその全行程を御言葉の光によって導かれたのです。彼のように、わたしたちも御言葉の光に照らされて歩んで行こうではありませんか。
         UP
2018年1月 
   『時は満ち、神の国は近づいた』   マルコによる福音書1:14〜20

   マルコによる福音書によれば、主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行かれ、「時は満ち、神の国は近づいた」と、人々に語り始められました。それでは、なぜ主イエスは、神の国の福音を語る最初の場所としてガリラヤを選ばれたのでしょうか。ここガリラヤは、宗教的権威の高さを誇るエルサレムとは異なり、何のよきものも出ない不毛の地、暗闇の地だと誰もが思っていました。しかしそのガリラヤで、主イエスは福音を語り始められたのです。このことに、非常に重要なメッセージがこめられています。

 わたしたちはどうしても、一見価値ありと思えるものに心を奪われてしまいがちです。誰も振り返らないようなところに、わざわざ心を向けたりはしないのではないでしょうか。ところが主イエスは、誰からも見捨てられたように思われていたガリラヤに向かわれ、貧しく日毎の生活に追われている人々に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語りかけられたのです。

 最初に主イエスと出会い、「わたしについて来なさい」と声をかけられたのは、四人の漁師たちでした。シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネです。彼らは何か特別な場所で声をかけられたのではなく、何の飾り気もない、何時もの多忙な生活のただ中で、主の招きのみ声を聴き、直ちに網も舟も父も雇い人もそこに残して、主イエスの後について行きました。悔い改めて、すなわち生きる根源的な方向を転換して、主に従ったのです。

 翻って、わたしたちは主イエスとの出会いをどこに求めているでしょうか。わたしたちもまたガリラヤの地で生きているはずです。そのガリラヤを誇り高いエルサレムに変えようとしてはいないでしょうか。しかしわたしたちのガリラヤは最早希望のない不毛の地ではありません。主イエスは、わたしたちの内なるガリラヤにおいて、わたしを信じ、わたしについて来なさいと、招きの声をかけてくださっています。ですから、今置かれているところで、この召しのみ声を聴き、これに直ちに応えるわたしたちでありたいものです。


         UP
  
  
 

日本キリスト教会札幌琴似教会

〒063−0842 札幌市西区八軒2条西1丁目3−1
牧師 久野真一郎

伝道開始 1930年  教会創立 1949年7月24日